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2017年06月14日

「素顔の大建築家たち 弟子の見た巨匠の世界 01+02」

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 日本の近代建築をつくりあげてきた15人の建築家たちの足跡をたどり直したのが、本書である。所員やスタッフとしてそれぞれの建築家の生の姿に直に接していた弟子と、第三者の目を持った歴史家、研究者による語り、対話によって行われた日本建築家協会主催の連続シンポジウムがそのベースであり、日本の近代建築をもう一度、今の時点で問い直すことを目指している。

 ここに登場している前川國男、坂倉順三、吉阪隆正の三人の建築家は、同じル・コルビュジェを師としながら、弟子として接した時期、あるいは本人の資質によって師の異なった面を継承、発展し、それぞれのル・コルビュジェ像を描いてみせた。このことからも分かるように、ここでの弟子による証言は、師匠の全体像をとらえているというよりも、むしろ身近に接した弟子の各人の目を通した個性的な師匠の像と考えるべきであろう。「前川さんの考える建築というのはコルビュジェの建築とはまったく違うんだという、そういう気持ちをもっていたような気がします。」という弟子の証言もそのような一節である。

 この本に掲げられている年表をながめると、15人の建築家たちの中で最も早く生まれたのは1888年生まれのアントニン・レーモンドと竹腰健造の二人であり、レーモンドはライトの帝国ホテルの仕事に従事した後の1923年にはすでに自らの事務所を開いている。対して最も若い池辺陽は1920年生まれであり、1944年に坂倉建築研究所に入り実務活動を始めている。最も早くこの世を去ったのは1965年の久米権九郎であり、最も最近が1997年の吉村順三である。ちなみにル・コルビュジェは1887年生まれで、1965年に没している。以上の記述は、すべて西暦によるものであるが、15人の生年はちょうど明治から大正にかけてであり、その活動は早いもので大正から、おそくとも敗戦の年の1945年までには何らかの活動を始め、ほとんどの登場者が昭和で没したことを読み取ると、まさに日本の近代建築をかたちづくってきた建築家たちの物語と言える。

 あるものは今日の組織設計事務所の礎を築き、あるものは生前中から組織というより、もう少し個人的な師と弟子との共同作業の中で建築をつくった。建築家というのは何者か、また建築設計という職能をどのように考えるのかという問いを考えるための幅広い内容を含んだ、私的な建築昭和史の書である。

(「住宅建築」2001年8月号)

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前川國男を通してみたモダニズムの鉱脈 「近代建築を記憶する」

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 歴史は、書かれることによって歴史となる。建築の場合、本人や同時代人により、まとめられた作品集や記録がある。それはそれで貴重なものであるが、遅れてきた人たちによる近過去に対する客観性を持った記述も、貴重なものである。近過去であれば、まだ資料も散逸していないし、本人や協力者へのインタヴューへも可能かもしれない。同時代人が持つ熱さはないかもしれないが、遅れてきた人が持っている事象への距離感、熱さに流されない感覚を持ちうる。歴史を歴史としてつなぎとめ、次へと渡していく作業である。松隈洋や花田佳明たちは、そのような近過去につくられた日本の近代建築を読みかえしていく作業を続けており、それらは、「再読/日本のモダン・アーキテクチャー」や「素顔の大建築家たち1,2」となった。本書は、そのテーマの延長線上でまとめられた松隈による論考を集めたものである。

 前川國男は、日本の近代建築において大きな足跡を残した。前川は、テクニカルアプローチに表わされるような、自らの信じる建築を探求し深めていく作業と同時に、自らが建築を学んだル・コルビュジェやアントニン・レーモンドのアトリエで得た幅広いつながりの中で仕事をした。後者の豊かな実りの例として、ル・コルビュジェの国立西洋美術館や国際文化会館を挙げることができる。国立西洋美術館は、ル・コルビュジェの設計をもとに弟子の前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が実施設計や工事監理を行い、国際文化会館は、前川國男、坂倉準三、吉村順三により設計された。それぞれの建築家がめざしたものは個別にありながら、一方で協働できる共通のものがあったのである。モダニズムや前川本人が本来備えていた良質な精神が、それを可能にしたのであろう。

 前川の晩年に前川事務所で働いた松隈が、そのような前川やそのまわりにいた建築家の作品、また国立西洋美術館や国際文化会館のような協働の成果や経緯を丁寧に読みかえしていったのが、本書である。松隈が前川事務所に入所したのは1980年であり、その時点で皇居の堀端に建つ東京海上ビルや一連の公共美術館建築が完成していたことを考えると、それはやはり遅れてきた人による近過去の記述と言うことができる。それは、松隈も言及しているように歴史の中で忘れられようとしていたモダニズムの鉱脈に気づき、そこから現代を解き、次の建築をつくるための新しい思考の糸口を発見する作業であり、本書はそのために読まれるべきものである。

(「住宅建築」2005年8月号)

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「巨匠への憧憬 ル・コルビュジェに魅せられた日本の建築家たち」

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 「立面(ボリューム)も面も平面(プラン)によって決定される。平面(プラン)が原動力である。」ル・コルビュジエは、彼の著書「建築をめざして」の中で、そのように表明した。プランこそがすべての基礎であり、建築のボリュームもリズムもプランを通して整えられるべきものと考えていた。では、実際彼のアトリエでは、どうであったか?

 「C先生が考案しているのを見ているのは中々興味がある。殊に、両先生が意見衝突して、論戦が始まると、中々見ものだ。聞いていると、啓発される点が少くない。二人が喧嘩している間に、プランが段々煉れて、よくなってゆく。プランだけが頭を悩すので、断面や立面は、プランから自然とのびてゆく。勿論、プランを考へるとき、そこまで考へてあるのだけれど......プランが出来てしまふと、もうあとは殆ど機械的に出来上ってゆく。階高を定める外は、みんな定っているから。」ここで、両先生と呼ばれているのは、ル・コルビュジエ(C先生)と彼のパートナーであるピエール・ジャンヌレであるが、ここで報告をしているのは牧野正巳という日本人スタッフである。

 ル・コルビュジエの弟子である日本人というと前川國男、坂倉順三、吉阪隆正らがすぐに思い浮かぶが、佐々木宏によるこの本をひもとくと、それ以外にも何人もの日本人が、彼の門戸をたたいたことがわかる。佐々木宏による丹念な取材によるこの本は、遠い時間の中に埋もれかけていたものを一つ一つひろいあげることによってできあがった本である。この牧野正巳の一節も、その中の一つである。それによると牧野は、近代建築の傑作であるサヴォア邸の図面を描いていたことが知れる。近代建築の歴史の中にあって、今やさまざまな分析の対象となっているサヴォア邸が、生き生きとした時間の中で製図板の上で息づいていた様が、一人の日本人によって報告されている。

 佐々木宏には「近代建築の目撃者(新建築社、1977年)」という、やはり聞き語りによる近代建築史がある。この本は、それと並びうる重要な証言と取材の記録である。歴史は語られ、記されることによって歴史となる。

(「住宅建築」2001年2月号)

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「宮脇 壇の住宅 1964 - 2000」

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 住宅作家と呼ばれる人たちの中でも、都市住宅の作家と呼ばれるのにふさわしい人はそう多くないと思うが、宮脇檀は、その数少ない中の一人であろう。宮脇檀は、芸大で吉村順三に師事した後に、東大の大学院では一転して都市計画の高山英華の研究室に学んだ。その軌跡のなかに単なる住宅作家の枠にとどまらなかった宮脇の問題意識が見てとれると思う。

 1960年代を振り返って、宮脇はこう述べていた。「当時住宅の仕事すらなく、ただ住宅が好きだった僕の所に集まっていた各大学等の学生諸君と一緒に毎週土曜日の夜を新宿の工学院大学756番教室を無断使用して、講師を呼んだり、住宅の見学会をしたり、資料の収集と整理や分析を行った記憶は今でもなまなましい。お陰で当時の僕の資料棚には戦後の建築雑誌のバックナンバー90数パーセントが集まった。」その成果はやがて「日本の住宅設計(彰国社、昭和51年)」という小さい本にまとめられた。
日本の戦後の社会、建築界の動き、住宅設計の流れを俯瞰し一冊の本にまとめスターティングポイントに立った宮脇は、その後その成果を自らの設計のベースとして住宅設計の仕事へと邁進することになる。住宅の仕事すらなかった宮脇は、その後ジャーナリズム誌上に81の住宅作品を発表し、時代を駆け抜けていった。

 「宮脇檀の住宅1964-2000」と名づけられたこの本は、その宮脇の住宅作品を一つの視野の中におさめたものである。村井修によるモノクロの美しい写真は、ブルーボックス、グリーンボックスなどと名づけられた宮脇の色彩あふれる住宅群の背後にある宮脇の住まいへのあつい思いをむしろ雄弁に伝えているように思う。写真におさめられたその姿や、「都市住宅」誌の名編集長であった植田実による的確な解説から、われわれは住宅設計に対する多くの示唆を読み取らなければいけないだろう。

(「住宅建築」2000年8月号)

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「造景する旅人 建築家吉田桂二」

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 吉田桂二は、その幅広い活動によって知られるが、その活動はおおむね三つの柱に分けて考えることができる。一つは、木造架構をベースにした作品を設計する建築家としての活動であり、もう一つは歴史的な町並みを描いた多くの美しいスケッチからなる著作をつくり、実際の保存活動に多面的に携わっている保存の実践家としての活動であり、さらに間取り等の住まいの本を通しての啓蒙家としての活動である。吉田桂二の活動を知りたければ、本人による、その多くの著作を見れば、土地に根差した多くの作品を知ることもできるし、多くの美しいスケッチによって、日本や世界の民家、町並みの美しいたたずまいを見ることもできるし、間取りの本を通じて、住まいのあり方を問い直すこともできる。この伝記では、そのような多面的な活動の根っこがどこにあり、どこでどのように、それらの活動がつながり展開してきたかを知ることができる。

 吉田桂二は、東京芸術大学で建築を学び、大学時代の師は、日本の新しい数寄屋をつくりだした吉田五十八であった。一方修業時代の師は、日本の住宅に新たな地平を切り開こうとしていた池辺陽であった。彼は、吉田五十八が開いた新しい数寄屋の世界でもなく、池辺陽の開いた機能主義による新しい住宅の世界でもなく、古い町並みや民家の保存を通して、そこから木造建築文化のエッセンスをくみ取って、彼独自の創造の世界を開いていった。それは、二人の師が開いた世界とは、また別の世界のものであるといえるが、吉田桂二が吉田五十八賞受賞に際して、「ぼくは、八さんのマネはしませんが、八さんを超えるような仕事が残せたらと思います。」と感慨をもらしたように、方向性は違っても師が持っていた建築に対する姿勢にどこかで大きく影響を受けたものである。

 吉田桂二は、岐阜の出である。生まれ育った岐阜のまちは、町家が軒を連ねていたが戦災で焼かれてしまった。そのスケッチからも分かるように彼の記憶の中では鮮明なイメージが残っている。民家や町並みに対する愛着、彼の活動の根は明らかにそこにあると考えられる。彼の旅の道程は、その失われた原風景をどのように再発見し、創造へと変換させていったかの道すじであり、本書をひもとくと、その展開のいきいきとしたありさまを知ることができる。

(「住宅建築」2003年2月号)

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建築家の学校の百年に 「ケンチクカ-芸大建築科100年建築家1100人」

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 一見、まことに不思議な本。もしも「帯」がなかったら、本でなくて冊子を束ねたものにしか見えない。A5版よりやや小さめの薄い月刊同人誌を、2,3年分糊付けしたような体裁。それも月によって色とりどり。一方で、その昔ガリ版刷りでつくった小学校の卒業文集のような香りもする。1100人の建築家による卒業文集。文章も、気がつくと次の書き手に移っていて、どこからが文章のはじまりで、どこまでが終わりかが分からない文集。それは、古くて新しい一つの大きな物語なのかもしれない。

 わたしの知っている芸大建築科の卒業生たちは、何だかとっても仲がいいように見える。だが、みなそれぞれに個性的。絵はうまく、手は動く。聞くと、1学年15名だという。学校が大好きで、4年より長くいてしまう学生も多々(?)いるという。そんな卒業生たちの姿を写した同窓会の集合写真のような百周年誌。この本には、建築学科ではない建築科-建築家を生み出す学校の秘密が満載だ。多くの卒業生が書き手だが、卒業生以外にも原稿依頼をしている。内輪話にとどまらず、その原稿に最もふさわしい書き手を選んだ結果という。ノスタルジアよりは、歴史を通して未来へのメッセージを志向している。

 吉村順三によると、建築家は「ひろい文化的知識をもち、しかも非常なイマジネーションをもって、ヒューマンなものを具体化する」仕事だという。そのような考えに基づいた少人数教育から、多士済々の士が巣立っていった。

 そんな卒業生の一人は、プロジェクト・プランナーを仕事としている。彼は「プロデュース」とは、設定した達成目標に対して、さまざまな能力・職能を束ねて、無を有に変換させることだという。そして「プロデュース」の力の養育には、「建築」を学ぶことが大いに有効だと述べる。なぜなら「建築」は、インテグレーションすなわち統合化の産物であり、一人では「建築」は体現させられない。したがって建築を学ぶ第一歩から、実はこうした統合化作業のフレームのうちでの訓練が始まるのだという。つまり建築の知識を学ぶだけでなく、むしろ建築を学ぶことを通して身に付く思考的・感覚的な能力としての「建築的なる発想」が、「プロデュース」の仕事にはとても有効だという。イタリアなどで舞台美術家や服飾のデザイナーたちに、若いころ建築を勉強した者が多いのも、それに通じる話だ。建築家の仕事は、まちがいなく広義の「プロデュース」の仕事である。何もないところから、一つの全体像をつくりあげる。

 芸大では、古建築の実測と、イスの制作で鍛えられるという。百年記念の集まりのために呼びかけたところ、その学生時代のイスを今でも多くの建築家が手元に持っていたと聞く。彼ら建築家としての原点は、この学校にある。

(「住宅建築」2008年2月号)

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