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2017年09月15日

創造都市としての日本海都市-鶴岡-

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1.日本海都市-鶴岡-

創造都市とは、佐々木雅幸によれば、市民の創造活動の自由な発揮に基づいて、文化と産業における創造性が発揮された都市であり、環境問題や地域社会の課題に対して、創造的問題解決を行えるような『創造の場』に富んだ都市であるという。日本の代表例としては、金沢が挙げられている。

江戸時代から明治にかけて、対馬海流にのって行きかった北前船の寄港地をながめると、物流・人々の交流や、富の蓄積を背景として、文化も育まれていった。松江、金沢、富山などと共に、庄内平野に位置する鶴岡・酒田も、そのような日本海都市として位置づけることができる。ここでは、創造都市としての鶴岡を、考察してみたいと思う。

鶴岡は、酒井藩14万石の城下町であり、学問や文化、伝統を重んじる気風が脈々と息づいている。まちの中心にある、かつて鶴ヶ岡城であった城址は、鶴岡公園として整備されている。庄内藩の藩校であった致道館は、城址に隣接した鶴ヶ岡城三の丸曲輪内に位置する。東北地方に唯一現存する藩校建造物として、表御門、講堂、孔子廟などが残っている。また酒井家の御用屋敷跡は、致道博物館として整備されている。城址に隣接して、県内有数の進学校である鶴岡南高校や、鶴岡工業高校も立地しており、幾多の人材を輩出している。

明治大正期の鶴岡では、絹織物の製造が盛んであった。もともとは、江戸時代に酒井氏が京都西陣から技術者を招き伝授したのが始まりと伝えられるが、明治期に地元出身の発明家斎藤外市が考案した織機により、近代産業としての新生面を拓いた。(絹の斎藤外市、綿の豊田佐吉と言われていた。)その製品は海外にも輸出された。前述の鶴岡工業高校の前身は、1895年(明治28年)に創立された鶴岡町立鶴岡染織学校であった。
鶴岡は、江戸時代、城郭を囲むように武家町が、その東・南部には町人や職人の住む十四町が配置された。戦災や大きな災害にあうことがなかったまちは、江戸期の都市構造を良く残し、そこに明治大正期の建築が加わることになった。

2.文化都心

 そのような鶴岡のまちの中心である鶴岡公園に、鶴岡アートフォーラムと鶴岡タウンキャンパスは、位置する。そこは、かつての城郭の一部であり堀がめぐっていたが、その一角は戦後埋め立てられ野球場などになってしまっていた。アートフォーラムも鶴岡タウンキャンパスも、堀の水面を復活し、一体感のある領域をつくりだしている。


図-1:鶴岡公園(鶴岡城址)

鶴岡は、昔から芸術文化活動が盛んであり、白甕社という80年を超える歴史を持つ美術団体などがある。それらの作品を展示するための場所としてアートフォーラムは、構想された。設計者である小沢明は、このエリアを文化都心と呼んでいる。「文化というのは、たとえば劇場だけがあればいいというものではありません。芝居を見るにしても、自分の家から劇場に着くまでの前段階、見終わった後の余韻を味わいながら食事をしたり家路につく、という一連の行為が人間にあるわけです。それが文化です。」と、述べている。アートフォーラムは、主の展示空間がアートボックスとして中央にまとめられ、その周縁に展示空間への出入りのスペースがとられている。その街路を歩くような周縁の回廊空間は、ガラス張りで、鶴岡公園周辺の風景と一体化されている。「文化が都心をつくっていく」ということで、内向きに閉じた印象を持つ従来型の展示施設に対して、内側に閉じた箱を配置して、その外側に開いたギャラリーをデザインした。

 鶴岡タウンキャンパスには、慶應義塾大学先端生命科学研究所、東北公益文科大学大学院、鶴岡市図書館の分室となる致道ライブラリーが共存している。教育研究機関が地域活性化の効果を最大限に引きだすことを目指し、まちの中心地に、塀も門もない市民に開かれた学校がデザインされた。東北公益文科大学は、公益という社会理念を考える学問を提唱しており、酒田と鶴岡の二つの都市にキャンパスが設けられている。公益学を考えるにふさわしい場として、まちと一体化したキャンパスが目指された。致道ライブラリーは、鶴岡市、慶応義塾、東北公益文科大学三者が連携し、共同運営する図書館である。キャンパスの一角にあるレストラン棟は、水面に張り出しており、まちの観光名所にもなっている。

3.鶴岡まちなかキネマ

 鶴岡まちなかキネマは、中心市街地活性化を目的とする「まちづくり鶴岡」が、木造絹織物工場を映画館に再生する事業である。「まちづくり鶴岡」は、鶴岡市内32団体の出資を受けて、2007年に株式会社として設立された。「活性化」を単に、商店街の活性化といったような商業的視点から捉えるのではなく、地方都市全体の将来にかかわる地域社会の課題と捉えている。行政だけではできない、地域住民や民間企業の多様な発想や経験を活用することも求められている。中心市街地を都市内外の人に使ってもらうことで賑わいを創出することを目指し、人を集める仕掛け、人を集める拠点をつくることが計画された。リノヴェーションされた絹織物工場は、鶴岡公園から見ると東に位置する山王商店街の近くに位置していた。そこに市民を利用者のメインとする集客施設として映画館がつくられた。木造の小屋組みは現しのまま残す一方で、映画館として必要な梁下高さを確保するために、床を掘り込み、客席を設置している。

 鶴岡は、藤沢周平原作、山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」の舞台となった地である。また庄内は、映画「おくりびと」の撮影地ともなった。鶴岡市には、数年前までは映画館が一つ存在していたが、隣接する三川町にショッピングモールに併設してシネコンができたことにより、撤退してしまった。そのため、映画を鑑賞するには車でアクセスをしなければいけない。これは高齢者や高校生以下の年代などを映画から遠ざけているといえる。映画館の整備は、そのような現状と、近年地元での映画撮影の増加による鶴岡市内外の映画に対する注目度の上昇を受けたものであり、大手シネコンが目指す方向性とは異なる、市民利用に根ざした施設である。

4.創造都市としての鶴岡

 このように、鶴岡は江戸期から残る都市構造、江戸、明治、大正、昭和の、それぞれの時代につくられ、それぞれの時代の刻印を残した歴史的建築、絹織物をメインに発展してきた産業遺産を、有効に活用しながら、まちづくりを進めてきた。それまでの市民による活発な芸術文化活動を受け、それらを発表する場を設けつつ、一方で慶応義塾など、外部からの刺激、資産も取り入れつつ、まちの中心地において、まちづくりをさまざまなかたちで展開してきた。まさしく市民の創造活動の自由な発揮に基づいて、文化と産業における創造性が発揮された都市であり、したがって鶴岡は創造都市として位置づけることができると考える。
(2010年9月 日本建築学会大会PD「創造都市時代における新たな公共空間の可能性」資料集に寄稿)

参考文献、図出典:
1.「まちづくり会議in鶴岡 -地方都市からまちの再生を考える-」記録冊子(2009年3月、まちづくり会議実行委員会、都市環境デザイン会議、鶴岡市)
2.「東北公益文科大学大学院開学記念シンポジウム2-市民に開かれたタウンキャンパスを考える-」記録冊子(2005年10月)
3.「なぜアートフォーラムか」(小沢明、新建築2006年1月号)
4.「大学づくりはまちづくり」(池田靖史、新建築2007年10月号)
5.「地域風景を守り、創造する-藤沢周平記念館と鶴岡まちなかキネマ」(高谷時彦、新建築2010年6月号)

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プレチニックのリュブリアナと、プレチニックハウス

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スロベニアの建築家プレチニック

スロベニアは、西はイタリア、北はオーストリア、南や南東はクロアチア、北東はハンガリーと、それぞれ国境を接している。かつてはオーストリア・ハンガリー帝国の一部であったが、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する一つの共和国となり、1991年独立を果たした。首都はリュブリアナである。アルプス山脈の南東側の裾野と、地中海のアドリア海にはさまれたスラブ地方の都市である。リュブリアナは距離で言うと、イタリアのトリエステから約100km、オーストリアのグラーツから約200km、クロアチアの首都ザグレブから約140kmであり、文化や交易の交差路にあると言える。
 ヨージェ・プレチニックは、1872年(オーストリア・ハンガリー帝国の一部であった時代の)スロベニアのリュブリアナに生まれた。1894年の1年間、ウィーンのオットー・ワグナーのアトリエで修業し、その後の3年間は芸術アカデミーのワグナーの教室に在籍した。

19世紀後半の都市ウィーン

 1848年、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンでは、自主憲法制定を求める革命が起こり、その後市街地を囲む市壁を取り壊し、新しい都市計画が行われることになった。その結果うまれたのがリンクシュトラーセであり、その街路に沿って建てられた、多くの公共建築であった。
それらは国会議事堂、市庁舎、大学などであったが、それぞれの建築内容にふさわしい様式が付与された。国会議事堂はギリシア・ローマ様式、市庁舎はオランダ・ゴシック様式、大学はイタリア・ルネサンス様式であった。そのようなリヴァイヴァリズムに拠って建てられる建築群に対して異を唱え、近代の実践的・機能的な要求に基づく自由な表現の必要を説いたのが、他ならぬオットー・ワグナーであった。

オットー・ワグナーの仕事

 1892年の合併編入で、ウィーンの市域は3倍以上に拡大し、人口は50万人を越えた。拡がりいく都市に対して、一つの行政組織のもとに総合的な街づくりが求められる時代であり、ウィーンのまちにとっては、数十年来懸案となっていた市電建設、ドナウ運河及びウィーン川整備事業が、ウィーン交通輸送施設委員会の主導のもと、行われることになった。その委員会には、国、州、市の代表者に、建築顧問としてオットー・ワグナーが加わっていた。ワグナーの建築作品集をひもとくと、駅舎や橋、水門や監視所などの、多くの美しいドローイングや写真を見ることができるが、それらは、そのように改造されていった都市ウィーンの産物であった。
 ヨージェ・プレチニックが、ワグナーのアトリエにいたのは、まさにその都市改造が行われていた時であった。いわゆる建築の枠組みのなかにとどまることなく、都市をかたちづくっていく環境要素すべてがデザインする対象であり、建築であれ、橋であれ、護岸であれ、それらはすべてデザインされなければならなかった。

独立後のプレチニック

ワグナーのアトリエで、多くの仕事をてがけたプレチニックは1900年に独立、その後10年ほどはウィーンで活動し、ウィーンで、ツァッヘルハウスなどを設計したが、その後は活動場所をプラハに移し、工芸学校で教鞭をとりつつ、プラハ城の改修設計に携わった。1921年リュブリアナ大学建築学科の教授となり、プレチニックは故郷リュブリアナに戻ってきた。

プレチニックのリュブリアナ

プレチニックは、1920年代リュブリアナの市街地の都市構造にとって重要な位置を占める多くの仕事を行った。


写真1:ズヴェズダ広場

公園や広場(ズヴェズダ広場:1927~32年、写真1)の建設に携わりながら、都市の重要なポイントにはオベリスク、階段などをつくっていった。また、リュブリャニカ川の川底を掘り下げる計画に同調して、川岸を整備し、セビリアスキー橋(1930~31年)や三本橋(1929~30年、写真2)、川岸に立つ市場(1939~40年)などの建設に関与した。


写真2:三本橋

地図を見てもわかるように、三本橋の建つ位置(図1の赤丸)は、リュブリアナ城(図1の左上あたり)、旧市街、新市街をつなぐ結節点であり、都市の重要なポイントとなる位置にデザインされた橋である。既存の老朽化した橋の両側に、水際まで降りていくことができる橋を足し、放射状に組み合わせた卓越したデザインである。放射状のプロットは、都市構造、リュブリャニカ川の曲り角になる流れの線形を見事に読み取ったものであり、まちの名所として、リュブリアナを訪れた観光客や、市民の多くが立ち寄る象徴的な場所となっている。


図1:プレチニックのリュブリアナ地図

都市をかたちづくっていく環境要素を、美しくデザインしていくという思想は、まさにウィーン時代に、ワグナーのアトリエで展開されていたことを、故郷のまちで実践していった結果であると言うことができる。
建築としても、フィルハーモニーのファサードを改装し(1937年)、国立大学図書館(1936~41年、写真3)のような代表作も設計した。国立大学図書館は、近代建築運動のなかでつくられつつあったモダニズムの建築とは一線を画した、個性的な表現のなかで重厚な建築をつくりあげている。足元の街路ヴェゴナ通りは、プロムナード(1929~39年)として、詩人グレゴチッチの記念碑(1937年)などと共にデザインされている。上記に記した建築や都市デザインは、すべて図1の地図内に位置するものである。


写真3:国立大学図書館

このように、プレチニックは、建築から都市デザインまでトータルな視点のもとに、都市リュブリアナをデザインし、リュブリアナは今や「プレチニックのリュブリアナ」と呼ばれるようになった。

プレチニック・ハウス

1921年故郷リュブリアナに戻ってきたプレチニックは、リュブリアナ市内に、平屋の小さな住宅を手に入れ、そこをすみかとした。(写真4)


写真4:プレチニックハウス外観

1923年から25年にかけて、自邸の拡張工事をスタートして、西側に円筒形プランの増築を行った(写真5)。1929年には隣家を手に入れ、円筒形増築の南側にウィンターガーデン、北側にエントランスホール(写真6)を増築した。それらのスペースには、プレチニックが収集した、さまざまな品が飾られていった。古典建築から発想を受けた、様々な建築的要素を自宅において実験し、それから後に他の建築の仕事に応用していった。シリンダー部分には、彼自身の書斎・寝室があった。書斎ではスケッチをし、思索にふける日々であった。(写真7)


写真5:円筒形プランの増築外観


写真6:エントランスホール内観


写真7:プレチニックの書斎

1957年プレチニックの死後、彼の甥が移り住みプレチニックの膨大な作品を整理し、その後所有はリュブリアナ市に移り、1972年市によってリュブリアナ建築ミュージアムが設立され、1974年には自邸はミュージアムとして公開された。2010年に館の運営はリュブリアナミュージアムに移管され、2013年から2015年にかけて、根本的なリノベーションが行われた。

現在のプレチニック・ハウス

現在は、「プレチニックのリュブリアナをつくりだした家」プレチニックハウスとして保存再生し、公開されている。内部は、リュブリアナに点在する、プレチニックの作品を入れ込んだ模型や、多くのドローイング、写真などが展示された、いわゆるミュージアムスペース(写真8)と、彼自身が生前住んでいた様子を彷彿とさせる自邸再現のスペースとから成り立っている。


写真8:ミュージアムスペースの展示
(リュブリアナの都市模型上に、プレチニックの作品)

ミュージアムスペースは、展示空間、ミュージアムショップ、小さなレクチャーホール、研究スペースから成り立っている。一方、自宅再現スペースは、外観、インテリア共に、プレチニックのデザインが貫かれたスペースであり、そこには、彼自身が使い込んだ製図道具、筆記用具、書籍、家具などが、生前このように使っていただろうという位置に注意深く置かれており、あたかも、ついさっきまで本人がそこにいたのではと思わせるようなしつらえとなっている。

前述したように、プレチニックは、平屋の小さな既存住宅を手に入れ、そこに1923年から25年にかけて、西側に円筒形プランの増築、1929年には既存隣家を手に入れ、南側にウィンターガーデン、北側にエントランスホールを増築した。根本的なリノベーションを行うに当たり、それらのスペースは、その重要度が建築家の関与の度合いや残り具合により評価された。プレチニック自身が内観外観共にデザインをした円筒形プランのエリア、ウィンターガーデン、エントランスホールなどのエリアが最も重要度の高いExceptional significanceとされ、最大限可能な限り保存されるべきスペースとされる一方、当初の平屋部分は普通の重要度Average significance、後の入手の隣家はさほど重要ではないMinor significanceのスペースとされている。前者は、家具調度品を含め自邸再現のスペースとして、最大限保存が行われている。後者はミュージアムスペースとして、重要な建築的要素(開口位置や、天井のヴォールト)は残しながら、その機能にあうように現代的な建築のヴォキャブラリーも取り入れて、注意深くデザインされている。(写真9)

都市「まるごとミュージアム」と自邸「建築ミュージアム」

『リュブリアナはプレチニックによる創造物のミュージアムであり、彼の自邸はプレチニックの創造のミュージアムである。』と言われている。(参考文献1) p.11)リュブリアナのまちには、建築、広場、公園、モニュメント、橋など、プレチニックによる多くの創造物があり、地図でも分かるように、都市それ自体が一つの「まるごとミュージアム」になっていて散策し巡ることができる。その一端にある彼の自邸は、それら創造物の一つであると同時に、その創造物をかつて生み出した場所であり、現在はその創造の根源とプロセスを知ることができる「建築ミュージアム」になっている。まちに点在し、いきいきと使われる建築や都市デザインが、「まるごとミュージアム」となる一方で、そのうちの一つの建築が、それらの成り立ちを知ることができる「建築ミュージアム」となり、だれでもがアクセスできる学習と交流と研究の場所となっている。個性的な点の集合による面状のひろがりは、その成り立ちや歴史を俯瞰するポイントも含まれており、きわめてユニークなミュージアム都市となっていると言える。


図2:プレチニックハウス平面図
(右側に街路、左側に庭園。重要度が色分けされている。)


写真9:プレチニックハウス入口(Average significance)

(2016年9月 日本建築学会大会 研究協議会「居住文化とミュージアム-ネットワークでつなぐ新しい博物館のかたち 建築計画編-」資料集に寄稿)

参考文献
1) Hiša Plečnik House (Ljubljana, 2015)
2) Jože Plečnik (Yale University Press, 1997)
3) 「ヨージェ・プレチニック」SD1987年11月号
4) 「ヨジェ・プレチニック-ウィーン、プラハそしてリュブリアナ」A+U2010年12月号
5) 「建築の中の都市の系譜:ウィーン」SD1982年9月号
6) プレチニックハウスのウェブサイト
http://www.mgml.si/en/plecnik-house-503/
図1出典:参考文献3) p.48(赤丸は筆者による)、図2出典:参考文献1) p.77、写真は、すべて筆者による撮影。

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