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2019年11月27日

「国立西洋美術館の光と影」

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光は、私にとって建築の最も重要な根底です。
私は光によって構成する。ル・コルビュジェ

構造は光の中でデザインされる。 ルイス・カーン

0.はじめに

 建築家にとって、空間をかたちづくることは、同時に光をデザインすることである。建築は、壁と、壁にうがたれた開口部によってかたちづくられる。開口部からは、人が出入りし、風が通り、光が入る。開口部のない建築はない。柱や壁などの構造体をもとに建築は造形されるが、その開口部から光が差し込むことにより、建築空間は実体化される。ル・コルビュジェやルイス・カーンが述べている通り、建築空間をかたちづくることは、その根底において光のありかたを考えることとなる。

それは、美術館の場合においても同様である。絵画を観るには光が必要であり、展示空間をかたちづくることは、すなわち光をデザインすることとなる。この小論では、国立西洋美術館の光について考える。そのためにまず、20世紀の偉大な美術館建築-ニューヨークのグッゲンハイム美術館と、ドイツのシュトゥットガルト国立美術館-について考えてみたいと思う。なお、この小論では、単に「光」と記す場合には自然光とし、人工照明による光の場合は、その旨明記することとする。

1.グッゲンハイム美術館の光

 まずフランク・ロイド・ライトの設計によるグッゲンハイム美術館について考えたい。グッゲンハイム美術館は、建物中央に位置する、建物全体を貫く大きな吹抜け空間と、それを取り巻くらせん状スロープの展示ギャラリーから成り立つ。美術館の来訪者は、まずエレベータで最上階まで上がり、そこかららせん状スロープをゆっくり降りながら絵画を観る。中央の吹抜け空間の上部にはスカイライトのドームがあり、自然光が上方から降り注いでくる。スカイライトのドームは、断面図(図1)からも読み取れるように、ガラスが二重になっており、上からの光は拡散光となり、やわらかな光が吹抜け空間に満たされるように感じられる。一方、展示ギャラリーの外縁部は、これも断面図(図1)から読み取れるように、斜めの壁と天井が出会う部分に切り込みが入れられ、そこから壁を明るくするように、小さな明り取りが設けられている。展示ギャラリーの外縁部の壁面は、その明り取りから光が導き入れられ、明るく照らされるように設計されている。ここで、中央吹抜け空間の光を「ミュージアムのメインスペース」の光、外縁部の光を「展示ギャラリー」の光と呼ぶことにすると、グッゲンハイム美術館では「ミュージアムのメインスペース」の光と「展示ギャラリー」の光は、一つの大きな空間のなかで統合され、そのなかで大きな天空光と、小さな外縁部の光とにまとめられていることが分かる。


図1:グッゲンハイム美術館 断面図

2.シュトゥットガルト国立美術館の光

 次に、ジェームズ・スターリングの設計によるシュトゥットガルト国立美術館について考えたい。シュトゥットガルト国立美術館の平面は、カール・フリードリヒ・シンケル設計のアルテス・ムゼウムを下敷きにしている。建物中央に円形のロトンダが配置され、その廻りを展示ギャラリーの部屋群が、ぐるりと取り囲むようになっている。スターリングは、シンケルの建物では室内であったロトンダを外部化し、そこに敷地下のレベルから上のレベルへと至る歩行者プロムナードを組み込んだ。ロトンダは、天井がなく円形の壁だけが回り、彫刻ギャラリーとして外の部屋となっている。「ミュージアムのメインスペース」は外部化され、その外の部屋には、天空光が注ぎ込み光は移ろう。一方で、展示ギャラリーの部屋群は、部屋ごとに天井全面がスカイライトからの光による光天井となっている。光天井は半透明のガラスの格子になっていて、やわらかな自然光が注ぎ込み展示室を満たしている。断面図(図2)を見て分かるように、展示壁面の上部はアーチ状に内側に傾き、光天井面と展示壁面が直接接しないように離隔が取られている。外部に面したスカイライトのガラス屋根と、半透明の光天井のガラススクリーンの間には、天井内にたっぷりとしたスペースが確保され、縦ルーバーによって光が拡散される様子が分かる(写真1)。シュトゥットガルト国立美術館では「ミュージアムのメインスペース」は外部化され自然そのものの光を受け、一方で「展示ギャラリー」は、天井内のたっぷりとしたスペースと縦ルーバーによる光天井の光、すなわち「調整された自然光」で満たされている。


図2:シュトゥットガルト国立美術館 断面図


写真1:シュトゥットガルト国立美術館 展示室天井内

3.国立西洋美術館の光

 そして、ル・コルビュジェの設計による国立西洋美術館である。ここでは、主任研究員~館長として、国立西洋美術館に長くかかわった高階秀爾の考察(*1)によって、その光について考えてみたい。高階は、まず内部の構成のなかで、特に気に入った空間として、中央の19世紀ホールを挙げ、「建物の全長を貫く広い吹抜け空間の中心に立つ柱は、垂直にのびて、屋上に突き出た三角形の明り取り窓にまでつながり、全体は爽やかな光に包まれる。しかもその一部には、2階の展示場が張り出しているので、その下は天井の低いやや奥まった空間となっている。厳密な秩序を保ちながら変化に富んだその構成は、まさしく「直角の詩」と呼ぶにふさわしい。」と述べる。高階は、さらに2階の展示ギャラリーについて言及し、「天井の高低差によって空間にリズムと変化を与えるという手法は、2階の展示場でも見事な効果を挙げている。壁を立てて部屋を仕切るという常套的なやり方をいっさい排除して全体をひと続きの空間にまとめ、外側の壁は天井が高く、しかも明るく、内側は暗いという対照の妙が見通しのよい清澄な秩序を生み出していた。内側の天井が低いのは、その上に照明ギャラリーが配置されているからである。この照明ギャラリーは、上部が屋根の上に出ていて、外光を取り入れるようになっている。つまり自然光と人工光を混ぜて館内を照らし出すという方式である。」と述べる。国立西洋美術館では、「ミュージアムのメインスペース」は中央の「19世紀ホール」であり、「展示ギャラリー」は2階の展示場である。「ミュージアムのメインスペース」では、三角形の明り取り窓から光が注ぎ込み、印象的な空間をつくりだしている。ル・コルビュジェは、そこに写真壁画を貼りつけるアイディアを持ちスケッチを描いていた。この「19世紀ホール」について、建物が竣工した1959年に、吉阪隆正は「空間の詩の作法-ル・コルビュジェの設計した国立西洋美術館」という文章のなかで、次のように述べている(*2)。「外部からは、四角な壁の上に三角の屋根が強い印象を与え」、「上野の森に呼応しながら、西欧の合理的な文明を表徴するかのような空間を描き出している」とし、「あの屋根の部分は特にこの美術館の中心に当たる十九世紀の大ホールの存在を示しているものでもあり」、「あの三角の天井から入る光の下で、この大作(上記写真壁画のこと:筆者注)にかこまれて美術館に入る観客には、不思議な力をもって迫ってくることだろう。」と評していた。

一方で、2階の「展示ギャラリー」では、照明ギャラリーから光が入ってくる(写真2)。しかし、自然光と人工光をミックスして光を入れるという照明ギャラリーのあり方に大きな問題があった。


写真2:国立西洋美術館本館 展示室

4.照明ギャラリーの問題

 照明ギャラリーの問題を考えるにあたって、まずル・コルビュジェの構想に立ち返ってみたい。ル・コルビュジェの、比較的早い段階のスケッチと思われるものが図3である。そこでは直達する自然光の範囲が、断面図に点線で描きこまれている。図4は、もう少し設計が進んだ段階のものと思われ、自然光の線と共に、自然光を補完するためとされた人工照明の線が描きこまれている。ル・コルビュジェが文部大臣に送った1956年の覚書には、「太陽光を用いると同時に、無数の配置が可能な人工照明を採用することにした。」(*3)と書かれている。


図3:国立西洋美術館 展示室照明ギャラリー スケッチその1


図4:国立西洋美術館 展示室照明ギャラリー スケッチその2

設計当時、ル・コルビュジェのつくった基本計画に対して、日本側からは「太陽の動きで展示室の明るさが変化すること、直射光の影響があること、絵が反射すること」など問題点が挙げられ、修正依頼書が送られた。図5は、その修正依頼書に付けられた付図である。


図5:修正依頼付図

「光が絵に反射すること」「より上部からの採光が理想であること」「現在案で実施なら照明ギャラリーのガラス引戸前に水平ルーバーが必要なこと」が図解されている。(*4) 上部からの採光を求めた図は、高い天井、低い天井の形態の根本的な修正、空間のプロポーションの変更が伴うことは明らかな提案で、建築家にとっては受け入れ難い案であっただろう。一方で、空間の基本的な骨格の変更を伴わない、照明ギャラリー内部に、水平ルーバーを加える案は、直射光に対する対策として、十分検討に値する解決方法であったと思われる。ル・コルビュジェは、美術館の採光について、アーメダバードでは人工照明を、またチャンディガールでは直射光の入らない東西に走る腰屋根方式の天窓採光を試みている。(*5)

照明ギャラリーの最大の問題点は、絵画を観るため、あるいは絵画をまもるために障害となる、直達の自然光が展示壁面に届くことであった。高い天井と低い天井の組合せの検討のなかから生み出された照明ギャラリーにおいて、そこを通る直達光に固執した考えが問題を生むことになった。ル・コルビュジェは修正依頼に対して、「展示室の採光については平均化することにより単調になり、それは近代的ではない。光線の問題は自分は他の設計で経験があり、むしろ単調を破ることを考えている」と答えている(*5)。自らも画家として制作活動を続けていたル・コルビュジェの、絵画を観る環境に対しての考え方、また松方コレクションは玉石混淆であるという評価のもと、残念ながら、結果として何も修正は行われず、当初の案の通りに基本設計図はまとめられた(写真3)。
アーメダバードやチャンディガールの例を見ても分かるように、ル・コルビュジェが、どれほど直達光に固執していたかは分からない。さまざまなコミュニケーション手段が高度に発達した現代から見ると、海外とのやり取りと言えば、機会をとらえて渡欧しての打合せ、あるいは手紙や書状が意思疎通の主要な手段であった時代が引き起こしたコミュニケーション・ギャップの問題がそこにはあったと思わざるを得ない。


写真3:国立西洋美術館本館 展示室照明ギャラリー内

 ここで再び高階の考察に戻りたい。この照明ギャラリーについては「当初このような照明は卓抜なアイディアだと私には思われたが、実際に美術館に勤めるようになって、問題はそれほど単純でないことに気づかされた。もともと美術館における照明の問題は、作品の性格や配置の状況ともからんで、一筋縄ではゆかない厄介なものである。自然光に依存する度合いが大きいと天候に左右され易いし、作品の位置によっては照明が反射して見にくいという事態も起り得る。国立西洋美術館では、その後人工照明を大幅に増やすなど、さまざまな対策を講じた。」とある(*6)。実際のところ、直射光を遮るために、照明ギャラリーの引戸の内側にはブラインドが設置され、その後もカーテンの設置、照度不足を補う蛍光灯の増設など改善の努力が試みられたが、1997年、照明ギャラリー上部の明り取りは完全に閉鎖された。「ミュージアムのメインスペース」である「19世紀ホール」は、三角形の明り取り窓から光が注ぎ込み、その光の下でル・コルビュジェの空間がいきいきと使われているのに対して、「展示ギャラリー」は人工照明による展示室となってしまった。

5.国立西洋美術館「新館」の光

 松方コレクションを常設する美術館として1959年に開館した国立西洋美術館は、もともと展示面積が狭く、特別展のたびに松方コレクションを撤去することを余儀なくされていた。こうした事態を解決するために「新館」が構想され、1979年に完成した。「新館」の設計は、坂倉準三、吉阪隆正と共に、ル・コルビュジェの弟子として本館の実施設計にかかわっていた前川國男であった。「新館」も、また自然光と格闘することとなったのであった。「新館」構想時に掲げられた3つのテーマのうち、一つは「展示室には当館が指示する部屋に自然光を取り入れるようにすること」であった(*7)。新館構想時に、国立西洋美術館2代目館長であった山田智三郎は、ル・コルビュジェが設計した本館の問題点を克服し、自然光の下で絵画が鑑賞できる展示室を実現することを強く望んだ。山田は、本館に展示されていた、16世紀に描かれたティントレットの絵に自然光が当たった際の「赤色」の素晴らしさを、前川に伝えていたと言われる。また、山田はオランダのクレーラー・ミューラー美術館についても言及し、自然光による展示の魅力を語ったそうである(*8)。そのテーマに対して、前川が考えたのは、複層ガラスの屋根と、天井内に光量を調整する装置を設けた、まったく新しい自然光の降り注ぐ展示室だった。複層の合せガラスの屋根は、「紫外線の遮蔽」「光の拡散」「熱の遮断、結露の防止」「ガラス破損時の浸水、落下の防止」などが考慮され、天井面には多数の開口部を開ける方式が選択された(写真4、5)。

写真4、5:国立西洋美術館新館 展示室

この基本設計を具体化するために、建築研究所の宮田研究員によって実験が行われ、報告書が1977年にまとめられた。報告書では自然採光の意義として次のように書かれていた。

 「時刻や天候に左右されることなく安定した光量を経済的に供給できる人工照明の発達は、視環境に対する要求の厳しい展示空間から自然光を全く排除する傾向を促した。しかしながら、今日では、高度に制御された人工空間の過度な等質性や沈滞性に対し、居住者の立場からの反省が行われるようにもなった。本研究の対象である西洋美術館の展示室も、このような脈絡の上で再び最高の利点を認識しようとして計画されたものである。すなわち、人工光源により、照明される閉鎖的で単調な雰囲気の展示空間ではなく、人類がその発生以来、慣れ親しんできた自然光を十分取り入れた、外界との連結感豊かな展示空間を創造しようとするものである。」(*9)

報告書では、自然採光を実現する上で、「自然光の不都合な変動を一定の許容できる範囲に調整すること」が検討課題として挙げられていた。その後、その変動に対する回答として、開口部ごとにカメラの絞りの原理を応用した、特注の制御機構が開発された(写真6)。


写真6:国立西洋美術館新館 展示室天井内

3か月分の自然光の照度記録と、美術館側の照度要求から調光方法の検討が行われた。自然光の照度は、雲の流れで、ほんの一瞬大きく低下し、再び戻るということが頻繁に起きるが、それに追随することは現実的でなく、実際には一定時間、展示面の照度を測定して、それをフィードバックして、モーターを内蔵した絞りを調整するという機構となった(*10)。このように十分に検討された、自然光が注ぐ展示室であったが、その光の制御機構は、モーター音や光のゆらぎの不安定さが問題視され、いつしか使われなくなり、2009年永遠に閉ざされることになった。筆者の経験でも、自然光そのものの変化よりも、自然光の変化につれて動く、絞りのモーター音の方が気になった記憶がある。

 図6の断面図を見ると、シュトゥットガルト国立美術館の展示室と同様に、ガラス屋根と天井の間は、たっぷりとしたスペースが確保され、光が拡散されるだけの十分なスペースはあると思われる。


図6:国立西洋美術館新館 展示室天井部分断面図

機械力を用いた光の制御機構は、自然光の変動に対する手立てとして開発されたわけであるが、この新館とシュトゥットガルト国立美術館展示室の、それぞれの断面図を見比べると、自然光の変動に対して、そこまで神経質に機械力を用いて制御することには結果として疑問を抱かざるを得ない。それは、ゆらぎや変化がある自然光の下に絵画を鑑賞することに対して、あまりにも許容幅の狭い判断であったと考える。

 これまで見てきたように、国立西洋美術館の本館では主として直達光の問題、新館では光の制御機構の問題が起こり、自然光による展示室は計画、設計されたものの頓挫することとなった。

6.まとめ-国立西洋美術館の光と影

 ここまで、グッゲンハイム美術館と、シュトゥットガルト国立美術館、国立西洋美術館の本館、新館について、その光のありよう、光の問題を概観してきた。LED照明が実用化された現在の流れは、さらに人工照明に向かっている。発展を遂げた人工照明を活用し、いままでスカイライト屋根から導き入れた自然光に代わり、天井内に人工照明を設け、あたかも天空光からの光のような光天井を設けることも不可能ではなくなってきている。

しかし一方で、絵画は、国立西洋美術館2代目館長の山田が望んだように、その光の下で描かれた、同じ自然光のもとで鑑賞されることが追及されてもよいと考える。伊藤若冲ほか江戸絵画作品のコレクションを持つ収集家ジョー・プライスは、「展示は自然光で作品を鑑賞できる環境でなければならない。日本美術は自然光の陰影で見てこそ本領を発揮する。」「自然光で見る絵こそが本来の顔で、電気照明で見る絵は違ったものではないか。明るさに満たされてはいても『限りなくフラット』に照らし出す現代の美術館照明の方が、むしろ作品を窮屈なものにしていないか。」と述べている(*11)。光のシミュレーション技術の発達も目覚ましく、例えば国立西洋美術館の照明ギャラリーについても、東京理科大学吉澤らによって、絵画へのダメージを押さえるなかでの自然光利用の可能性が探られている(*12)。展示室で展示される絵画や美術品の種類にはよるが、直射光は論外としても、紫外線等絵画に有害な成分はカットされ、十分に拡散された自然光、すなわち「調整された自然光」は許容されるべきだと考える。それは、光の問題を建築の根底の問題ととらえる建築家だけでなく、鑑賞者の立場からも考えられるべき問題であり、さまざまな状況と立場から考察、議論されるべき問題であると考える。

*1:高階秀爾「ル・コルビュジェ建築との出会い」(「開館50周年記念 ル・コルビュジェと国立西洋美術館」展カタログ 2009年 P.16~p.17)
*2:吉阪隆正「空間の詩の作法-ル・コルビュジェの設計した国立西洋美術館」(「朝日ジャーナル」1959年4月26日、吉阪隆正集8「ル・コルビュジェと私」、勁草書房、1984年に所収)
*3:「ル・コルビュジェの芸術空間-国立西洋美術館の図面からたどる思考の軌跡」展カタログ 2017年 p.31
*4:藤木忠善著「ル・コルビュジェの国立西洋美術館」(鹿島出版会、2011年)p.74~p.77
*5:藤木忠善「キュービストがつくった芸術容器-国立西洋美術館におけるル・コルビュジェと日本の弟子たち」(「ル・コルビュジェと日本」鹿島出版会、1999年、p.184、p.190)
*6:高階秀爾「ル・コルビュジェ建築との出会い」
*7:松隈洋「ル・コルビュジェが蒔いた一粒の種子:国立西洋美術館にはじまる建築連鎖の物語」(「開館50周年記念 ル・コルビュジェと国立西洋美術館」展カタログ 2009年 P.70~p.73)
*8内田祥士「国立西洋美術館と前川國男」(SD1992年4月号「前川國男の遺した空間」p.37、p.42)
*9松隈洋「ル・コルビュジェが蒔いた一粒の種子:国立西洋美術館にはじまる建築連鎖の物語」
*10:内田祥士「国立西洋美術館と前川國男」(SD1992年4月号「前川國男の遺した空間」p.43~44)
*11:ジョー・プライス「私の履歴書」日本経済新聞2017年3月19日、21日
*12:吉澤望「建築照明のシミュレーション」(日本建築学会「光の建築を読み解く」彰国社、2015年、p.102) 、吉澤望他「国立西洋美術館における自然光利用の可能性」(照明学会第44回全国大会、2011年)

図1出典:THE SOLOMON GEGGENHEIM MUSEUM (THE SOLOMON GEGGENHEIM MUSEUM AND HORIZON PRESS, 1960) p.24
図2、写真1出典:JAMES STIRLING MICHAEL WILFORD (THAMES AND HUDSON, 1994) P.60
写真2、写真3出典:「開館50周年記念 ル・コルビュジェと国立西洋美術館」展カタログ 2009年 p.47
図3、図4出典:「ル・コルビュジェの芸術空間-国立西洋美術館の図面からたどる思考の軌跡」展カタログ 2017年 p.32,p.34
写真4~写真6出典:「開館50周年記念 ル・コルビュジェと国立西洋美術館」展カタログ 2009年 p.51)
図5:藤木忠善著「ル・コルビュジェの国立西洋美術館」(鹿島出版会、2011年)p.74
図6:新建築1980年1月号 p.318

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2019年12月19日

岩尾整形外科病院

カテゴリー: Medical
所在地大分県日田市
用 途整形外科病院
建築主医療法人豊堂 岩尾整形外科病院
プロジェクト・アドヴァイス建築・地域環境研究所
設 計上西 明+上西建築都市設計事務所
株式会社ニッテイ建築設計、株式会社 KAP、株式会社 総合設備計画
監 理上西 明+上西建築都市設計事務所
株式会社ニッテイ建築設計、株式会社 KAP、株式会社 総合設備計画
施 工株式会社 佐伯建設
構造規模木造一部鉄筋コンクリート造、地上2階
建築面積:1339.27㎡、延床面積:2270.99㎡
工事期間2017年5月~2019年9月
photo : JX(Jirou Satou)
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2017年06月14日

「原点としてのベルリン・フィルハーモニー」

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0.はじめに

 ミューザ川崎シンフォニーホールは、中央にあるステージを客席が取り囲むワインヤード形式のホールである。ワインヤード形式のホールは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるベルリンのホールが、そのさきがけと言ってよいであろう。この小論では、ミューザ川崎シンフォニーホールの言わば原点とも言うべきベルリン・フィルハーモニーについて考察し、建築家がどのような考えに基づいて、そのホールをつくり、音楽家がどのように受け止めたかを振り返ってみて、ワインヤード形式のホールの持っているポテンシャルについて考えてみたい。

1.ベルリン・フィルハーモニーの設計コンペ

 第二次大戦の戦災により多くの建築が破壊されたベルリンでは、1945年の終戦から10年ほどたった1956年にフィルハーモニーのために新しい音楽堂が計画された。その設計案は、コンペによって選ばれたものであった。

 ベルリン・フィルハーモニーは、ムジークフェラインザールを本拠とするウィーン・フィルハーモニーに並ぶ世界屈指のオーケストラである。ベルリン・フィルは、1882年に創立され、ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーらによって率いられてきた。フルトヴェングラーは、1922年に常任指揮者に就任し1954年に亡くなるまで基本的にその職にあった。後任にはヘルベルト・フォン・カラヤンが選ばれ1989年に亡くなるまで常任指揮者をつとめた。フルトヴェングラーもカラヤンも30年以上に渡ってベルリン・フィルを率いたことになる。そこには、街に根ざしたオーケストラが、個性ある指揮者によって長い年月率いられ、ホームグラウンドにしている音楽堂で定期演奏会を開くという構図がある。

 新しい音楽堂は、常任指揮者になって数年しかたっていないカラヤンにとって、これから自分の時代をつくっていくという時点で計画されたものだった。設計コンペでシャロウンの案が当選したが、1959年敷地が変更になり、1960年に着工し、1963年オープンした。シャロウンは、フィルハーモニーにつながる室内楽ホール(950席)をさらに設計した。それは彼の死後15年たって1987年に竣工した。

2.建築家シャロウンのコンセプト

 では、建築家はベルリン・フィルハーモニーのためにどのようなホールがふさわしいと考えたか?シャロウンは、そのホール設計のコンセプトについて、以下のように述べている。

 音楽が焦点となる。これが最初からの基本方針である。主となるべきこの考えは、ベルリンの新しいフィルハーモニーのホールに形を与えるだけでなく、建物全体の計画の中で、最も優先されるべきことである。オーケストラと指揮者は空間的にも視覚的にも中心に位置する。数学上の中心ではなかったとしても、彼らは聴衆によって完全に囲まれるのである。ここでは、「作り手」と「受け手」の分離はなく、最も自然な座席配置でオーケストラのまわりにグルーピングされた聴衆のコミュニティを見出すであろう。ホールは、その大きさにもかかわらず、親密さを持ち、直接的で共に音楽を創り出す雰囲気を共有することができる。ここで音楽の創造と経験は、形の美学によってつくりだされるのではなく、仕えるべきその目的から導き出されるのである。人間と音楽と空間が新しい関係のなかで集合するのである。

 全体の構成は、一つのランドスケープによっている。ホール全体は谷のように見え、その底にはオーケストラが位置し、そこに隣接し上っていく丘にワインヤードが広がる。テントに似た天井は、大地の風景に対する空の風景になっている。凸型のテントに似た天井は、音響と深く関連していて、その凸型は、できる限り音を拡散しようという要求に基づいている。ここでは音はホールの一方の狭いサイドから反射されるのではなく、中心の深みから湧き起こり、すべての方向に伝わり、そして聴衆の中に降り、広がるのである。最も遠くに座っている聴衆にも最短で音の波が届くように努力が行われた。音の拡散は、ホールの壁の反射、さまざまなレベルに不規則に配置されたワインヤードの側壁の反射によって達成されている。これらは、音響学の分野でなされた進歩に拠るところが大きかった。まったく新しい領域が発見、探求、そして達成されたのである。

 この建物を構成するすべてのディテールを決定しているのは、ホールに対する要求である。外観の形態に関することであっても、屋根のテントのような形態に良く表わされている。ホールをメイン・ホワイエの上に浮かすことにより、補助的なスペースはそれぞれの性格が決定された。どの部屋も、それぞれ固有の機能を自由に展開させることができた。階段群はホワイエに展開し、その生き生きした形をホールの要求するところに適合させている。

 このようにすべては、音楽的な経験する場をつくることを目指されている。補助的なスペースも祝祭的な静けさを持つホールに対して、ダイナミックで緊張をはらんだ関係を保っていて、フィルハーモニーの王冠の中のまさに宝石となっている。

 シャロウンのコンセプトは、音楽を奏でるオーケストラをホールの中心に置き、その周囲をワインヤード状の客席が取り囲み、ホワイエや建物の外観は、そこから展開されるものであった。

 シューボックス型のホールに見られるように演奏者と聴衆のかたまりが向き合って対峙するのではなく、聴衆が自然と演奏者を取り囲む関係を建築化した。ホールは内部空間の要求をベースとして、内から外へと設計されなければならないと考えられていた。そのテントのような屋根の形態からフィルハーモニーは、「カラヤン・サーカス」と呼ばれていた。外壁は当初財政難を理由にコンクリート打放しのペイント仕上げに減額されたが、後年1980年代に金属製パネルで覆われることとなった。

3.カラヤンの評価

 そのように構想されたホールに対して、音楽家はどのように考えたか?コンペが行われた時に、カラヤンが審査委員会に対して送った書簡は次の通りであった。

 応募作品のなかで、特に抜きん出た作品が一点ある。
演奏者を中央に配することを原則とした設計である。(作品番号は忘れたが、全体が白く座席の部分が金色の模型だ)。この設計はいくつかの点で優秀と思われる。壁面の配置が音響的に優れている上に、何より印象的なのは聴き手が音楽に完全に集中できる点だ。現存するホールの中で、この設計ほど客席の問題を巧みに解決している例を、私は知らない。私も補佐役のヴィンケルも、オーケストラを中央に配するこの設計は、いかなる既存のホールにもまして、ベルリン・フィルハーモニーの音楽スタイルにふさわしいと考える。このオーケストラの第一の特徴は遠くまで届く音と、音楽のフレーズの初めと終わりにおける特別な呼吸にある。したがってこの設計は、本番にもリハーサルにも理想的な場を生みだすことだろう。

 この新しいホールをホームとする音楽家側からの意見が、コンペの実施案を選ぶ際に与えた影響は大きいものであったであろう。建築サイドの審査員だけが、シャロウンの案を推したとしても同じ結果になったかは分からない。カラヤンは、音楽映画をつくったり、自らオペラの演出を手がけたりと、音楽家の中でもとりわけ視覚的なファクターに関心を持つ音楽家であった。そのような資質を持つ音楽家が、シャロウンの案を推したのであった。

4.音響設計と視覚の効果

 音響設計を担当したのは、その方面でドイツにおける先駆的業績を持つクレーマー教授であった。彼は、初期反射音の問題についてシャロウンが忘れないように常に注意を喚起していたが、一方で音楽が中心にあるということに対しては音響設計的には懐疑的であった。シャロウンは、メイン・コンセプトから離れるのは拒否したが、できる限り色々な方法を考えて、クレーマーに応えていこうとした。後にクレーマーは、シャロウンは今まで協働した建築家の中で最も適応力があり、自らのコンセプトをこわすことなく常に音響上の要求に応えることができたと述べている。

 シャロウンが与えた複雑な形態(それは、ホールだけでなく、さまざまなビルディングタイプの建築で追求されていたものであった)は、音響上有利な側にはたらいた。純粋幾何学に基づく円形や矩形は、音の一点への集中や、フラッター・エコーの原因になるからである。フリーフォームの不整形な形態は、形やものの大きさに関する正確な知覚を失わせるものであった。ホールの中心から見た時、ホールは実際の距離よりは小さく、親密に見えるのである。また指向性のあるトランペットやトロンボーンのような楽器や人間による声に対しては、ステージ背後の席は音のバランスをうまくとることができない。しかし通常は見ることのできない指揮者の表情は、見ることができ、その視覚上の情報が聴覚を補っている。このように音楽を中心にというコンセプトに起因する音響上の不利な点は、設計上の工夫によって解決した点もあるが、それ以上にまさにこのコンセプトをもとにデザインされたホールの持つ豊かな視覚的体験によってカバーされ、このホール独自の音楽体験をもたらしているといえる。

5.コンペから建設へ

 そのようにして選ばれたシャロウンの案であったが、コンペ案の時に考えられていた敷地と、実際に建てられた敷地は異なっていた。もともとコンペ案の時に考えられていた敷地は、西ベルリンの中心に近い場所でブンデスアレー通りに面したものであったが、1959年そこから東ベルリンに近いティアガルテン地区に敷地は移された。そこは文化フォーラムとして、都市ベルリンにおける文化施設の集合するエリアとして構想された。それは、東西がふたたび統合された時のことを考えて選ばれた敷地だと言う。(ベルリンの壁が建設されたのは1961年であり、1959年時点では存在していなかった。)フィルハーモニーは、そのエリアでも最初に建設された建築であり、その後隣接して、シャロウン自身の設計による国立図書館(1978年シャロウンの死後竣工。その閲覧室はヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン天使の詩」の重要な舞台となった。)やミース・ファン・デル・ローエによるナショナル・ギャラリー(1968年竣工)が建てられた。それらは、すべてウンター・デン・リンデンなどに建てられた古典主義建築と比較すれば、まぎれもない近代建築であるが、正方形平面による整形で静謐なギャラリーと、シャロウンによるフリーフォームの不整形でダイナミックな建築は、対極的な建築のあり方を示している。東西ドイツが統合されるまで、このティアガルテン地区は、ベルリンの壁に近く西ベルリンにとっては周縁部に位置していたが、統合後は近くのポツダム広場も開発され、当初都市ベルリン全体にとって中心に近い場所として選択された意図が、40年以上たって現実のものとなった。

 ここで特筆すべきは、敷地は変わったが、ホールのデザインと言う点で見れば、コンペ案と実施案は基本的に同じであることである。メインエントランスからホワイエにかけてのスペースが敷地に合わせて変形されたにすぎない。シャロウンのホールのデザインは、敷地の形状から導き出されたのではなく、音楽ホールとして、そのようにあるべきと考えられたものであり、変更すべき理由はなかったのである。

compe1
コンペ時の平面図(1956年)
site plan
シャロウンによる文化フォーラムの構想図(1964年)

6.ホールとホワイエのデザイン

 ここで再びホールに戻り、そのホワイエも含めたデザインについて考えたい。ベルリン・フィルハーモニーのホールは、平面図を見て分かるように基本的にはシンメトリーである。最上部の席の上手に位置するオルガンが左右対称を破る要素となっている。ワインヤード状に配置されたブロック席は、平土間、1階席、2階席といったスタティックな配列ではなく、不整形なかたちのブロック席のかたまりが立体的にずらされながら、その最前列で音響上有効な側壁を形成しながら配置されている。したがって確かに中心軸上に立ってみればシンメトリーを意識することもできるが、少しでも中心軸からはずれて立つと、もはやシンメトリーを意識することはなく、ダイナミックに広がるワインヤードのランドスケープが広がるのである。垂直線や水平線はなく、床はゆるやかに傾いている。視覚的に大きな要素であるオルガンが中心軸上でなく、上部に追いやられていることも、シンメトリー感覚を弱めている。シンメトリーは感じ取れるものではなく、空間を統御する下敷きとなっている。またこのホールで特徴的なのは、大地の変形である座席と天空の変形である天井が卓越し、座席と天井が接する部分にある壁面がほとんど感じられないことである。

 客席は2218席である。そのうち約250席がステージの背後に、約300席がステージ側面に配されている。ホールの大きさは、長手方向には60M、短手方向には55Mであるが、最も遠い席からでもステージまでは32Mである。(ボストン・シンフォニーホールは2612席で、ステージまで40M)この近さ、親密さはステージを客席の中心に配置することで達成されている。ステージ上の天井高さは22Mで、ポリエステル製の音響反射板が吊られている。室容積は、26,000立米である。

 ホワイエのデザインを見ると、メインエントランスは、コンペ案と同様に中心軸とは関係ない位置に配置され、上層へと導くダイナミックな階段群は中心軸とはやはり関係ない方向で宙に浮いている。ホールを訪れた聴衆は、ステージ上手方向にあるメインエントランスから時計回りに大きく弧を描く方向のホワイエを大回りしながら、階段群を通りホールに向かう。赤いステンドグラスとホールを支えるV字型の柱がホールの中心軸を暗示しているが、それをそれとして認知することはできない。したがって、外部からメインエントランスを通り、階段を経てホールに至る経路は、ホールの中心軸とは無関係の動きであり、シンメトリー感覚を感ずることはできない。ホワイエでは視線は弧に沿って流れ、ホールでは視線は中心のステージに向かって集まる。立体的なダイナミックなホワイエの構成は、ホール内部と同じように「見る」「見られる」の関係をつくり出し、ワインヤードホールの序奏/プロムナードとなり、休憩時間にはホワイエはその経路を散策、徘徊する人であふれ活気を呈する。その立体的な経路を散策する経験もまた、このホール独自の音楽体験の一部となっている。

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7.分節から流れへ(アーティキュレーションからフローへ)

 ベルリンと川崎を比較してみた時、両者とも演奏者と聴衆の親密さをもたらすワインヤード形式をとりながら、その違いは客席とオルガンのあり方に見られる。ベルリンの客席がクラスター状のブロック配置の分節(アーティキュレーション)のデザインによっているのに対し、川崎は螺旋状配置の流れ(フロー)のデザインによっている。ベルリンではオルガンは上手上部に押しやられ、川崎はその流れに拮抗してステージ後方の中心に位置している。天井に接する壁面について見れば、ベルリンではその壁面はほとんど感じられないが、川崎ではそれを意識することができる。川崎では、ワインヤードの中で、ブロック配置のアーティキュレーションによらない、新しい流れをつくりだしたといえそうである。

参考文献
“Hans Scharoun” Peter Blundell Jones (PHAIDON, 1995)
“Hans Scharoun” Eberhard Syring, Jorg C.Kirchenmann (TASCHEN, 2004)
“Concert Halls and Opera Houses” 2nd Edition, Leo Beranek (Springer 1996)
「ベルリン・フィルハーモニック・コンサート・ホール」GA20、佐々木宏(ADA EDITA, 1973)
「音楽のための建築」マイケル・フォーサイス(鹿島出版会,1990)
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」リチャード・オズボーン(白水社,2001)

(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会 シンポジウム冊子「ミューザ川崎シンフォニーホール これからの音楽空間のあり方」所収)

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2017年05月23日

奈良県医師会センター

カテゴリー: Medical

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所在地奈良県橿原市
用 途医師会館および看護専門学校
建築主社団法人 奈良県医師会
設 計上西 明+ 上西建築都市設計事務所・福本設計 共同企業体
株式会社 花輪建築構造設計事務所、株式会社 総合設備計画
監 理上西 明+上西建築都市設計事務所・福本設計・サンコウ設計 共同企業体
株式会社 花輪建築構造設計事務所、株式会社 総合設備計画
施 工淺沼組・中和開発建設共同企業体
構造規模鉄筋コンクリート造一部鉄骨造 、地上4階 地下1階
建築面積 : 1600.1㎡ 、 延床面積 : 5317.3㎡
工事期間平成12年11月~平成14年5月
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2017年06月14日

緑の中の診療所

カテゴリー: Medical
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所在地奈良県生駒市
用 途診療所
設 計上西 明+上西建築都市設計事務所
株式会社 花輪建築構造設計事務所、株式会社 総合設備計画
監 理上西 明+上西建築都市設計事務所+福本設計
株式会社 花輪建築構造設計事務所、株式会社 総合設備計画
株式会社 花輪建築構造設計事務所、株式会社 総合設備計画
施 工株式会社 福岡工務店
構造規模木造 、地上2階
建築面積 : 176.29㎡ 、 延床面積 : 199.25㎡
工事期間平成16年6月~平成17年4月
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恵比寿Nビル

カテゴリー: Urban Building

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所在地東京都渋谷区
用 途事務所
建築主日栄不動産株式会社
設 計上西 明+ 上西建築都市設計事務所
株式会社 花輪建築構造設計事務所、株式会社 総合設備計画
監 理上西 明+ 上西建築都市設計事務所
株式会社 花輪建築構造設計事務所、株式会社 総合設備計画
施 工株式会社 辰
構造規模鉄骨造
工事期間2014年9月~2015年9月
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パークアヴェニュー・アパートメント

カテゴリー: House
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レイクヴィルの家

カテゴリー: House
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2017年09月15日

避難所としての名取市文化会館

カテゴリー:

1.名取市と名取市文化会館について

名取市は、仙台市の南側に隣接する、人口約7万人のまちである。国道4号線バイパスから西側山側の地域と、閖上(ゆりあげ)という漁港、名取市と岩沼市にまたがる仙台空港のある東側海側の地域に分かれる。市役所、市体育館、文化会館は、国道4号線バイパス東側(海側)に並んで立地しており、市の中心エリアを形成している。仙台空港へ通じる高速道路の仙台東部道路は、上記市役所エリアの東側に位置している。名取市文化会館は、財団法人名取市文化振興財団が運営する施設で、大ホール(1350席)、中ホール(450席)、小ホール(200席)、その他に会議室、講義室、和室、展示ギャラリー、リハーサル室、音楽練習室、演劇練習室、楽屋などがある。(延床面積:13652.9㎡)

2.大地震発生当日(2011年3月11日)

大地震発生当日、名取市文化会館では特に大きな催し物はなく、館内の人は比較的少ない日であった。名取市では、震度6強を観測した。地震発生から約1時間後に津波が襲来して、名取市の海側の地域は、報道にあったように、閖上漁港や仙台空港などが、甚大な被害を受けた。


Fig-1. 津波被災マップ(日本地理学会資料より)
    文化会館は、地図左側のほぼ真ん中あたり


Fig-2. 閖上のまちの津波被災状況

名取市文化会館は、海岸線から約5~6㎞離れた場所に立地している。先述した仙台東部道路は、盛り土の上につくられていた。それが一種の堤防の役割をして、市街地側への津波の侵入を遮り受け止める役割をした。そのため市役所エリアまでは、あと1㎞の近くまで浸水したが、届くことはなかった。
 文化会館は、非常用電源(ディーゼル発電機)があったため震災直後も照明がともっていたので、海岸の方からの人が集まり避難所となった。周囲は、ライフラインが止まり、街中が真っ暗な中、文化会館は光があり、市民が集まった。

3.避難所としての文化会館

文化会館は、市があらかじめ指定していた避難所ではなかった。しかしながら、ずぶ濡れになり裸足で避難してきた方たちの様子を見て、受け入れをはじめ、避難所となった。「避難所ではないから」ということで、地震直後に避難してきた人を断ることはしなかった。会館事務局長によると、最初の3日間は徹夜で避難されてきた方たちの対応に当たったとのことである。
当初は1300人ほどの人たちが寝泊りしていた。主たる避難所スペースとなったのは、ホール空間以外のエントランスホールやホワイエであるが、和室、講義室などの小部屋も避難所として開放された。それらのスペースは、冷暖房可能であり、換気のみの小学校体育館などと比べた時、その居住性は高いと言える。また小部屋の一部は、病気(風邪、インフルエンザ、ウイルス性腸炎)の人を隔離するために使われ、感染者の拡大を抑えることができた。


Fig-3. 避難所として使われるホワイエ

 長期化する避難生活のために、間仕切り用の段ボールが用意されたが、隣近所の方同士が多いということもあり、完全に閉じずにお互いの絆のために、少しずつ開いて暮らしていて、段ボールは余る状況であった。
仮設住宅が整備され、避難所としての役割は6月4日で終えた。84日間避難所として機能したことになる。6月18日には市主催の合同慰霊祭が、文化会館でとりおこなわれた。8月からは、一部貸し出しを再開し、小ホールを中心に、市民の文化活動がリスタートし、ミュージカルの練習やピアノの発表会が行われている。復興支援・慰問コンサートもひらかれている。

4.今後のための考察

 名取市文化会館は、避難所として機能することを想定した設計は行っていなかった。とはいえ、公共施設が基本的に備えていなければならない性能を持っていたために、避難所として機能することができた。その要件を、以下に整理して考えたい。
[建物のハード面]
・構造体は、健全性を保っていた。
・非常用電源が、あった。
・和室、講義室などの小部屋があり。隔離部屋として感染者の拡大を抑えることができた。
[建物のソフト面]
・指定避難所ではなかったが、避難所となった。
名取市の場合、文化会館に近いエリアは、幸い水や電気といったインフラ関係は、そんなに日がかからずに回復をした。一般論として考える時、非常用電源、熱源の燃料をどれだけ貯蔵しておくかの問題をクリアすれば、避難所として機能するかどうかは、建物の基本的な性能(耐震性、冷暖房、小部屋があること)に帰着するといえる。劇場・ホールは、エントランスホールやホワイエなどの大きなスペースと、楽屋などの小さな部屋の組み合わせで成り立っており、避難所としてのスペースの汎用性は備えていると言えそうである。あとは、それを成り立たせるソフトすなわち会館管理者の柔軟な対応が必要となる。

 復旧・復興のプロセスには、長い時間がかかる。避難所としての役割も緊急時には重要であるが、一方で、名取市文化会館において再開した市民の文化活動や復興支援・慰問コンサートのことを見聞すると、緊急時を過ぎてからは、文化会館の本来の役割を果たし、文化活動を含めての復旧・復興の拠点となることも、重要なことであると考える。
(劇場演出空間技術協会 JATETフォーラム2011資料集に寄稿)

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2017年06月14日

時が刻んだ風景の物語 「ヒルサイドテラス+ヒルサイドウエストの世界 都市・建築・空間とその生活」

カテゴリー:

 ヒルサイドテラスとヒルサイドウエストは、旧山手通り沿いに展開していった一つの長い物語である。第一話での登場者たちは、その姿やかたちを徐々に変えて再び現れたり、あるいは姿を消しながら成長、成熟していった。最初に物語の結末がはっきりとしていたわけではなく、第二話、第三話と話は、むしろ意外な展開を見せていった。植田実は、いつかそのことを「読みようのない次の一手」と評し、意表をついたものと論じていた。急速に変化する東京の中にあって、ゆっくりと成長していく姿は、連歌のように連続性と意外性を持って展開していった。できあがった姿を見ていると、いつのまにか当たり前の風景のように見え、しかしいつ来ても新鮮に思えるのは、そんな成長のしかたに秘密がありそうだ。

 その時が刻んだ風景の物語が、一冊の本になった。本を開き、目次を過ぎると、モノクロの端正な写真が編年順に並び、都市の中のヒルサイドがエッセイとして何人かの語り手によって語られる。そのような前半が、ヒルサイドを俯瞰的にとらえようとしているのに対して、後半はより詳細なレベルでの物語のきめ細かい解読が、スケッチ、図面、写真、文章により展開されている。(その多くは、カラーである。)今回新たに描き起こされた図面、新たに撮影された写真も多くまじえ、ヒルサイドの空間に分け入っていくような感覚にとらわれる。伝統的な街並みの記号論研究で著名な門内輝行と対話する中で、槇文彦は、その物語の成り立ちを明らかにしていく。つくるときには意識されなかったかもしれないことがらが、門内の分析の力を得て、ここでは明らかになっていく。見え隠れしながら展開していくヒルサイドの現在をとらえた数多くの写真は、その空間とそこで繰り広げられている生活をあますところなく伝えている。この本の副題が、「都市・建築・空間とその生活」となっていて、建築という器と、そこで行なわれるアクティヴィティの二つが並置されているのは、おそらくはヒルサイドの本質にかかわることである。

 ヒルサイドテラスもヒルサイドウエストも、その根本は都市を構成する住居である。ヒルサイドは、宮殿でもなく、モニュメントでもなく、近代建築が追い求めてきた夢を、都市の基本的な構成要素である集合住居と、内外部のパブリックスペースの連鎖により、実現させてきた。それは大仰な身振りの英雄叙事詩ではなく、20世紀の東京が紡ぎだした一つの魅力的なヒューマンスケールの物語なのである。この1冊の本は、その魅力を味わい、都市の本質の一端を汲み取るための書なのである。

(「住宅建築」2006年9月号)

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