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Wednesday November 27th, 2019

「国立西洋美術館の光と影」

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光は、私にとって建築の最も重要な根底です。
私は光によって構成する。ル・コルビュジェ

構造は光の中でデザインされる。 ルイス・カーン

0.はじめに

 建築家にとって、空間をかたちづくることは、同時に光をデザインすることである。建築は、壁と、壁にうがたれた開口部によってかたちづくられる。開口部からは、人が出入りし、風が通り、光が入る。開口部のない建築はない。柱や壁などの構造体をもとに建築は造形されるが、その開口部から光が差し込むことにより、建築空間は実体化される。ル・コルビュジェやルイス・カーンが述べている通り、建築空間をかたちづくることは、その根底において光のありかたを考えることとなる。
それは、美術館の場合においても同様である。絵画を観るには光が必要であり、展示空間をかたちづくることは、すなわち光をデザインすることとなる。この小論では、国立西洋美術館の光について考える。そのためにまず、20世紀の偉大な美術館建築-ニューヨークのグッゲンハイム美術館と、ドイツのシュトゥットガルト国立美術館-について考えてみたいと思う。なお、この小論では、単に「光」と記す場合には自然光とし、人工照明による光の場合は、その旨明記することとする。

1.グッゲンハイム美術館の光

 まずフランク・ロイド・ライトの設計によるグッゲンハイム美術館について考えたい。グッゲンハイム美術館は、建物中央に位置する、建物全体を貫く大きな吹抜け空間と、それを取り巻くらせん状スロープの展示ギャラリーから成り立つ。美術館の来訪者は、まずエレベータで最上階まで上がり、そこかららせん状スロープをゆっくり降りながら絵画を観る。中央の吹抜け空間の上部にはスカイライトのドームがあり、自然光が上方から降り注いでくる。スカイライトのドームは、断面図(図1)からも読み取れるように、ガラスが二重にな
っており、上からの光は拡散光となり、やわらかな光が吹抜け空間に満たされるように感じられる。一方、展示ギャラリーの外縁部は、これも断面図(図1)から読み取れるように、斜めの壁と天井が出会う部分に切り込みが入れられ、そこから壁を明るくするように、小さな明り取りが設けられている。展示ギャラリーの外縁部の壁面は、その明り取りから光が導き入れられ、明るく照らされるように設計されている。ここで、中央吹抜け空間の光を「ミュージアムのメインスペース」の光、外縁部の光を「展示ギャラリー」の光と呼ぶことにすると、グッゲンハイム美術館では「ミュージアムのメインスペース」の光と「展示ギャラリー」の光は、一つの大きな空間のなかで統合され、そのなかで大きな天空光と、小さな外縁部の光とにまとめられていることが分かる。
図1:グッゲンハイム美術館 断面図

2.シュトゥットガルト国立美術館の光

 次に、ジェームズ・スターリングの設計によるシュトゥットガルト国立美術館について考えたい。シュトゥットガルト国立美術館の平面は、カール・フリードリヒ・シンケル設計のアルテス・ムゼウムを下敷きにしている。建物中央に円形のロトンダが配置され、その廻りを展示ギャラリーの部屋群が、ぐるりと取り囲むようになっている。スターリングは、シンケルの建物では室内であったロトンダを外部化し、そこに敷地下のレベルから上のレベルへと至る歩行者プロムナードを組み込んだ。ロトンダは、天井がなく円形の壁だけが回り、彫刻ギャラリーとして外の部屋となっている。「ミュージアムのメインスペース」は外部化され、その外の部屋には、天空光が注ぎ込み光は移ろう。一方で、展示ギャラリーの部屋群は、部屋ごとに天井全面がスカイライトからの光による光天井となっている。光天井は半透明のガラスの格子になっていて、やわらかな自然光が注ぎ込み展示室を満たしている。断面図(図2)を見て分かるように、展示壁面の上部はアーチ状に内側に傾き、光天井面と展示壁面が直接接しないように離隔が取られている。外部に面したスカイライトのガラス屋根と、半透明の光天井のガラススクリーンの間には、天井内にたっぷりとしたスペースが確保され、縦ルーバーによって光が拡散される様子が分かる(写真1)。シュトゥットガルト国立美術館では「ミュージアムのメインスペース」は外部化され自然そのものの光を受け、一方で「展示ギャラリー」は、天井内のたっぷりとしたスペースと縦ルーバーによる光天井の光、すなわち「調整された自然光」で満たされている。
図2:シュトゥットガルト国立美術館 断面図
写真1:シュトゥットガルト国立美術館 展示室天井内

3.国立西洋美術館の光

 そして、ル・コルビュジェの設計による国立西洋美術館である。ここでは、主任研究員~館長として、国立西洋美術館に長くかかわった高階秀爾の考察(*1)によって、その光について考えてみたい。高階は、まず内部の構成のなかで、特に気に入った空間として、中央の19世紀ホールを挙げ、「建物の全長を貫く広い吹抜け空間の中心に立つ柱は、垂直にのびて、屋上に突き出た三角形の明り取り窓にまでつながり、全体は爽やかな光に包まれる。しかもその一部には、2階の展示場が張り出しているので、その下は天井の低いやや奥まった空間となっている。厳密な秩序を保ちながら変化に富んだその構成は、まさしく「直角の詩」と呼ぶにふさわしい。」と述べる。高階は、さらに2階の展示ギャラリーについて言及し、「天井の高低差によって空間にリズムと変化を与えるという手法は、2階の展示場でも見事な効果を挙げている。壁を立てて部屋を仕切るという常套的なやり方をいっさい排除して全体をひと続きの空間にまとめ、外側の壁は天井が高く、しかも明るく、内側は暗いという対照の妙が見通しのよい清澄な秩序を生み出していた。内側の天井が低いのは、その上に照明ギャラリーが配置されているからである。この照明ギャラリーは、上部が屋根の上に出ていて、外光を取り入れるようになっている。つまり自然光と人工光を混ぜて館内を照らし出すという方式である。」と述べる。国立西洋美術館では、「ミュージアムのメインスペース」は中央の「19世紀ホール」であり、「展示ギャラリー」は2階の展示場である。「ミュージアムのメインスペース」では、三角形の明り取り窓から光が注ぎ込み、印象的な空間をつくりだしている。ル・コルビュジェは、そこに写真壁画を貼りつけるアイディアを持ちスケッチを描いていた。この「19世紀ホール」について、建物が竣工した1959年に、吉阪隆正は「空間の詩の作法-ル・コルビュジェの設計した国立西洋美術館」という文章のなかで、次のように述べている(*2)。「外部からは、四角な壁の上に三角の屋根が強い印象を与え」、「上野の森に呼応しながら、西欧の合理的な文明を表徴するかのような空間を描き出している」とし、「あの屋根の部分は特にこの美術館の中心に当たる十九世紀の大ホールの存在を示しているものでもあり」、「あの三角の天井から入る光の下で、この大作(上記写真壁画のこと:筆者注)にかこまれて美術館に入る観客には、不思議な力をもって迫ってくることだろう。」と評していた。
一方で、2階の「展示ギャラリー」では、照明ギャラリーから光が入ってくる(写真2)。しかし、自然光と人工光をミックスして光を入れるという照明ギャラリーのあり方に大きな問題があった。
写真2:国立西洋美術館本館 展示室

4.照明ギャラリーの問題

 照明ギャラリーの問題を考えるにあたって、まずル・コルビュジェの構想に立ち返ってみたい。ル・コルビュジェの、比較的早い段階のスケッチと思われるものが図3である。そこでは直達する自然光の範囲が、断面図に点線で描きこまれている。図4は、もう少し設計が進んだ段階のものと思われ、自然光の線と共に、自然光を補完するためとされた人工照明の線が描きこまれている。ル・コルビュジェが文部大臣に送った1956年の覚書には、「太陽光を用いると同時に、無数の配置が可能な人工照明を採用することにした。」(*3)と書かれている。
図3:国立西洋美術館 展示室照明ギャラリー スケッチその1

図4:国立西洋美術館 展示室照明ギャラリー スケッチその2
設計当時、ル・コルビュジェのつくった基本計画に対して、日本側からは「太陽の動きで展示室の明るさが変化すること、直射光の影響があること、絵が反射すること」など問題点が挙げられ、修正依頼書が送られた。図5は、その修正依頼書に付けられた付図である。
図5:修正依頼付図
「光が絵に反射すること」「より上部からの採光が理想であること」「現在案で実施なら照明ギャラリーのガラス引戸前に水平ルーバーが必要なこと」が図解されている。(*4) 上部からの採光を求めた図は、高い天井、低い天井の形態の根本的な修正、空間のプロポーションの変更が伴うことは明らかな提案で、建築家にとっては受け入れ難い案であっただろう。一方で、空間の基本的な骨格の変更を伴わない、照明ギャラリー内部に、水平ルーバーを加える案は、直射光に対する対策として、十分検討に値する解決方法であったと思われる。ル・コルビュジェは、美術館の採光について、アーメダバードでは人工照明を、またチャンディガールでは直射光の入らない東西に走る腰屋根方式の天窓採光を試みている。(*5)
照明ギャラリーの最大の問題点は、絵画を観るため、あるいは絵画をまもるために障害となる、直達の自然光が展示壁面に届くことであった。高い天井と低い天井の組合せの検討のなかから生み出された照明ギャラリーにおいて、そこを通る直達光に固執した考えが問題を生むことになった。ル・コルビュジェは修正依頼に対して、「展示室の採光については平均化することにより単調になり、それは近代的ではない。光線の問題は自分は他の設計で経験があり、むしろ単調を破ることを考えている」と答えている(*5)。自らも画家として制作活動を続けていたル・コルビュジェの、絵画を観る環境に対しての考え方、また松方コレクションは玉石混淆であるという評価のもと、残念ながら、結果として何も修正は行われず、当初の案の通りに基本設計図はまとめられた(写真3)。
アーメダバードやチャンディガールの例を見ても分かるように、ル・コルビュジェが、どれほど直達光に固執していたかは分からない。さまざまなコミュニケーション手段が高度に発達した現代から見ると、海外とのやり取りと言えば、機会をとらえて渡欧しての打合せ、あるいは手紙や書状が意思疎通の主要な手段であった時代が引き起こしたコミュニケーション・ギャップの問題がそこにはあったと思わざるを得ない。
写真3:国立西洋美術館本館 展示室照明ギャラリー内

 ここで再び高階の考察に戻りたい。この照明ギャラリーについては「当初このような照明は卓抜なアイディアだと私には思われたが、実際に美術館に勤めるようになって、問題はそれほど単純でないことに気づかされた。もともと美術館における照明の問題は、作品の性格や配置の状況ともからんで、一筋縄ではゆかない厄介なものである。自然光に依存する度合いが大きいと天候に左右され易いし、作品の位置によっては照明が反射して見にくいという事態も起り得る。国立西洋美術館では、その後人工照明を大幅に増やすなど、さまざまな対策を講じた。」とある(*6)。実際のところ、直射光を遮るために、照明ギャラリーの引戸の内側にはブラインドが設置され、その後もカーテンの設置、照度不足を補う蛍光灯の増設など改善の努力が試みられたが、1997年、照明ギャラリー上部の明り取りは完全に閉鎖された。「ミュージアムのメインスペース」である「19世紀ホール」は、三角形の明り取り窓から光が注ぎ込み、その光の下でル・コルビュジェの空間がいきいきと使われているのに対して、「展示ギャラリー」は人工照明による展示室となってしまった。

5.国立西洋美術館「新館」の光

 松方コレクションを常設する美術館として1959年に開館した国立西洋美術館は、もともと展示面積が狭く、特別展のたびに松方コレクションを撤去することを余儀なくされていた。こうした事態を解決するために「新館」が構想され、1979年に完成した。「新館」の設計は、坂倉準三、吉阪隆正と共に、ル・コルビュジェの弟子として本館の実施設計にかかわっていた前川國男であった。「新館」も、また自然光と格闘することとなったのであった。「新館」構想時に掲げられた3つのテーマのうち、一つは「展示室には当館が指示する部屋に自然光を取り入れるようにすること」であった(*7)。新館構想時に、国立西洋美術館2代目館長であった山田智三郎は、ル・コルビュジェが設計した本館の問題点を克服し、自然光の下で絵画が鑑賞できる展示室を実現することを強く望んだ。山田は、本館に展示されていた、16世紀に描かれたティントレットの絵に自然光が当たった際の「赤色」の素晴らしさを、前川に伝えていたと言われる。また、山田はオランダのクレーラー・ミューラー美術館についても言及し、自然光による展示の魅力を語ったそうである(*8)。そのテーマに対して、前川が考えたのは、複層ガラスの屋根と、天井内に光量を調整する装置を設けた、まったく新しい自然光の降り注ぐ展示室だった。複層の合せガラスの屋根は、「紫外線の遮蔽」「光の拡散」「熱の遮断、結露の防止」「ガラス破損時の浸水、落下の防止」などが考慮され、天井面には多数の開口部を開ける方式が選択された(写真4、5)。
写真4、5:国立西洋美術館新館 展示室

この基本設計を具体化するために、建築研究所の宮田研究員によって実験が行われ、報告書が1977年にまとめられた。報告書では自然採光の意義として次のように書かれていた。
 「時刻や天候に左右されることなく安定した光量を経済的に供給できる人工照明の発達は、視環境に対する要求の厳しい展示空間から自然光を全く排除する傾向を促した。しかしながら、今日では、高度に制御された人工空間の過度な等質性や沈滞性に対し、居住者の立場からの反省が行われるようにもなった。本研究の対象である西洋美術館の展示室も、このような脈絡の上で再び最高の利点を認識しようとして計画されたものである。すなわち、人工光源により、照明される閉鎖的で単調な雰囲気の展示空間ではなく、人類がその発生以来、慣れ親しんできた自然光を十分取り入れた、外界との連結感豊かな展示空間を創造しようとするものである。」(*9)
報告書では、自然採光を実現する上で、「自然光の不都合な変動を一定の許容できる範囲に調整すること」が検討課題として挙げられていた。その後、その変動に対する回答として、開口部ごとにカメラの絞りの原理を応用した、特注の制御機構が開発された(写真6)。
写真6:国立西洋美術館新館 展示室天井内

3か月分の自然光の照度記録と、美術館側の照度要求から調光方法の検討が行われた。自然光の照度は、雲の流れで、ほんの一瞬大きく低下し、再び戻るということが頻繁に起きるが、それに追随することは現実的でなく、実際には一定時間、展示面の照度を測定して、それをフィードバックして、モーターを内蔵した絞りを調整するという機構となった(*10)。このように十分に検討された、自然光が注ぐ展示室であったが、その光の制御機構は、モーター音や光のゆらぎの不安定さが問題視され、いつしか使われなくなり、2009年永遠に閉ざされることになった。筆者の経験でも、自然光そのものの変化よりも、自然光の変化につれて動く、絞りのモーター音の方が気になった記憶がある。
 図6の断面図を見ると、シュトゥットガルト国立美術館の展示室と同様に、ガラス屋根と天井の間は、たっぷりとしたスペースが確保され、光が拡散されるだけの十分なスペースはあると思われる。
図6:国立西洋美術館新館 展示室天井部分断面図

機械力を用いた光の制御機構は、自然光の変動に対する手立てとして開発されたわけであるが、この新館とシュトゥットガルト国立美術館展示室の、それぞれの断面図を見比べると、自然光の変動に対して、そこまで神経質に機械力を用いて制御することには結果として疑問を抱かざるを得ない。それは、ゆらぎや変化がある自然光の下に絵画を鑑賞することに対して、あまりにも許容幅の狭い判断であったと考える。
 これまで見てきたように、国立西洋美術館の本館では主として直達光の問題、新館では光の制御機構の問題が起こり、自然光による展示室は計画、設計されたものの頓挫することとなった。

6.まとめ-国立西洋美術館の光と影

 ここまで、グッゲンハイム美術館と、シュトゥットガルト国立美術館、国立西洋美術館の本館、新館について、その光のありよう、光の問題を概観してきた。LED照明が実用化された現在の流れは、さらに人工照明に向かっている。発展を遂げた人工照明を活用し、いままでスカイライト屋根から導き入れた自然光に代わり、天井内に人工照明を設け、あたかも天空光からの光のような光天井を設けることも不可能ではなくなってきている。
しかし一方で、絵画は、国立西洋美術館2代目館長の山田が望んだように、その光の下で描かれた、同じ自然光のもとで鑑賞されることが追及されてもよいと考える。伊藤若冲ほか江戸絵画作品のコレクションを持つ収集家ジョー・プライスは、「展示は自然光で作品を鑑賞できる環境でなければならない。日本美術は自然光の陰影で見てこそ本領を発揮する。」「自然光で見る絵こそが本来の顔で、電気照明で見る絵は違ったものではないか。明るさに満たされてはいても『限りなくフラット』に照らし出す現代の美術館照明の方が、むしろ作品を窮屈なものにしていないか。」と述べている(*11)。光のシミュレーション技術の発達も目覚ましく、例えば国立西洋美術館の照明ギャラリーについても、東京理科大学吉澤らによって、絵画へのダメージを押さえるなかでの自然光利用の可能性が探られている(*12)。展示室で展示される絵画や美術品の種類にはよるが、直射光は論外としても、紫外線等絵画に有害な成分はカットされ、十分に拡散された自然光、すなわち「調整された自然光」は許容されるべきだと考える。それは、光の問題を建築の根底の問題ととらえる建築家だけでなく、鑑賞者の立場からも考えられるべき問題であり、さまざまな状況と立場から考察、議論されるべき問題であると考える。

*1:高階秀爾「ル・コルビュジェ建築との出会い」(「開館50周年記念 ル・コルビュジェと国立西洋美術館」展カタログ 2009年 P.16~p.17)
*2:吉阪隆正「空間の詩の作法-ル・コルビュジェの設計した国立西洋美術館」(「朝日ジャーナル」1959年4月26日、吉阪隆正集8「ル・コルビュジェと私」、勁草書房、1984年に所収)
*3:「ル・コルビュジェの芸術空間-国立西洋美術館の図面からたどる思考の軌跡」展カタログ 2017年 p.31
*4:藤木忠善著「ル・コルビュジェの国立西洋美術館」(鹿島出版会、2011年)p.74~p.77
*5:藤木忠善「キュービストがつくった芸術容器-国立西洋美術館におけるル・コルビュジェと日本の弟子たち」(「ル・コルビュジェと日本」鹿島出版会、1999年、p.184、p.190)
*6:高階秀爾「ル・コルビュジェ建築との出会い」
*7:松隈洋「ル・コルビュジェが蒔いた一粒の種子:国立西洋美術館にはじまる建築連鎖の物語」(「開館50周年記念 ル・コルビュジェと国立西洋美術館」展カタログ 2009年 P.70~p.73)
*8内田祥士「国立西洋美術館と前川國男」(SD1992年4月号「前川國男の遺した空間」p.37、p.42)
*9松隈洋「ル・コルビュジェが蒔いた一粒の種子:国立西洋美術館にはじまる建築連鎖の物語」
*10:内田祥士「国立西洋美術館と前川國男」(SD1992年4月号「前川國男の遺した空間」p.43~44)
*11:ジョー・プライス「私の履歴書」日本経済新聞2017年3月19日、21日
*12:吉澤望「建築照明のシミュレーション」(日本建築学会「光の建築を読み解く」彰国社、2015年、p.102) 、吉澤望他「国立西洋美術館における自然光利用の可能性」(照明学会第44回全国大会、2011年)

図1出典:THE SOLOMON GEGGENHEIM MUSEUM (THE SOLOMON GEGGENHEIM MUSEUM AND HORIZON PRESS, 1960) p.24
図2、写真1出典:JAMES STIRLING MICHAEL WILFORD (THAMES AND HUDSON, 1994) P.60
写真2、写真3出典:「開館50周年記念 ル・コルビュジェと国立西洋美術館」展カタログ 2009年 p.47
図3、図4出典:「ル・コルビュジェの芸術空間-国立西洋美術館の図面からたどる思考の軌跡」展カタログ 2017年 p.32,p.34
写真4~写真6出典:「開館50周年記念 ル・コルビュジェと国立西洋美術館」展カタログ 2009年 p.51)
図5:藤木忠善著「ル・コルビュジェの国立西洋美術館」(鹿島出版会、2011年)p.74
図6:新建築1980年1月号 p.318

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Wednesday June 14th, 2017

「原点としてのベルリン・フィルハーモニー」

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0.はじめに

 ミューザ川崎シンフォニーホールは、中央にあるステージを客席が取り囲むワインヤード形式のホールである。ワインヤード形式のホールは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるベルリンのホールが、そのさきがけと言ってよいであろう。この小論では、ミューザ川崎シンフォニーホールの言わば原点とも言うべきベルリン・フィルハーモニーについて考察し、建築家がどのような考えに基づいて、そのホールをつくり、音楽家がどのように受け止めたかを振り返ってみて、ワインヤード形式のホールの持っているポテンシャルについて考えてみたい。

1.ベルリン・フィルハーモニーの設計コンペ

 第二次大戦の戦災により多くの建築が破壊されたベルリンでは、1945年の終戦から10年ほどたった1956年にフィルハーモニーのために新しい音楽堂が計画された。その設計案は、コンペによって選ばれたものであった。

 ベルリン・フィルハーモニーは、ムジークフェラインザールを本拠とするウィーン・フィルハーモニーに並ぶ世界屈指のオーケストラである。ベルリン・フィルは、1882年に創立され、ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーらによって率いられてきた。フルトヴェングラーは、1922年に常任指揮者に就任し1954年に亡くなるまで基本的にその職にあった。後任にはヘルベルト・フォン・カラヤンが選ばれ1989年に亡くなるまで常任指揮者をつとめた。フルトヴェングラーもカラヤンも30年以上に渡ってベルリン・フィルを率いたことになる。そこには、街に根ざしたオーケストラが、個性ある指揮者によって長い年月率いられ、ホームグラウンドにしている音楽堂で定期演奏会を開くという構図がある。

 新しい音楽堂は、常任指揮者になって数年しかたっていないカラヤンにとって、これから自分の時代をつくっていくという時点で計画されたものだった。設計コンペでシャロウンの案が当選したが、1959年敷地が変更になり、1960年に着工し、1963年オープンした。シャロウンは、フィルハーモニーにつながる室内楽ホール(950席)をさらに設計した。それは彼の死後15年たって1987年に竣工した。

2.建築家シャロウンのコンセプト

 では、建築家はベルリン・フィルハーモニーのためにどのようなホールがふさわしいと考えたか?シャロウンは、そのホール設計のコンセプトについて、以下のように述べている。

 音楽が焦点となる。これが最初からの基本方針である。主となるべきこの考えは、ベルリンの新しいフィルハーモニーのホールに形を与えるだけでなく、建物全体の計画の中で、最も優先されるべきことである。オーケストラと指揮者は空間的にも視覚的にも中心に位置する。数学上の中心ではなかったとしても、彼らは聴衆によって完全に囲まれるのである。ここでは、「作り手」と「受け手」の分離はなく、最も自然な座席配置でオーケストラのまわりにグルーピングされた聴衆のコミュニティを見出すであろう。ホールは、その大きさにもかかわらず、親密さを持ち、直接的で共に音楽を創り出す雰囲気を共有することができる。ここで音楽の創造と経験は、形の美学によってつくりだされるのではなく、仕えるべきその目的から導き出されるのである。人間と音楽と空間が新しい関係のなかで集合するのである。

 全体の構成は、一つのランドスケープによっている。ホール全体は谷のように見え、その底にはオーケストラが位置し、そこに隣接し上っていく丘にワインヤードが広がる。テントに似た天井は、大地の風景に対する空の風景になっている。凸型のテントに似た天井は、音響と深く関連していて、その凸型は、できる限り音を拡散しようという要求に基づいている。ここでは音はホールの一方の狭いサイドから反射されるのではなく、中心の深みから湧き起こり、すべての方向に伝わり、そして聴衆の中に降り、広がるのである。最も遠くに座っている聴衆にも最短で音の波が届くように努力が行われた。音の拡散は、ホールの壁の反射、さまざまなレベルに不規則に配置されたワインヤードの側壁の反射によって達成されている。これらは、音響学の分野でなされた進歩に拠るところが大きかった。まったく新しい領域が発見、探求、そして達成されたのである。

 この建物を構成するすべてのディテールを決定しているのは、ホールに対する要求である。外観の形態に関することであっても、屋根のテントのような形態に良く表わされている。ホールをメイン・ホワイエの上に浮かすことにより、補助的なスペースはそれぞれの性格が決定された。どの部屋も、それぞれ固有の機能を自由に展開させることができた。階段群はホワイエに展開し、その生き生きした形をホールの要求するところに適合させている。

 このようにすべては、音楽的な経験する場をつくることを目指されている。補助的なスペースも祝祭的な静けさを持つホールに対して、ダイナミックで緊張をはらんだ関係を保っていて、フィルハーモニーの王冠の中のまさに宝石となっている。

 シャロウンのコンセプトは、音楽を奏でるオーケストラをホールの中心に置き、その周囲をワインヤード状の客席が取り囲み、ホワイエや建物の外観は、そこから展開されるものであった。

 シューボックス型のホールに見られるように演奏者と聴衆のかたまりが向き合って対峙するのではなく、聴衆が自然と演奏者を取り囲む関係を建築化した。ホールは内部空間の要求をベースとして、内から外へと設計されなければならないと考えられていた。そのテントのような屋根の形態からフィルハーモニーは、「カラヤン・サーカス」と呼ばれていた。外壁は当初財政難を理由にコンクリート打放しのペイント仕上げに減額されたが、後年1980年代に金属製パネルで覆われることとなった。

3.カラヤンの評価

 そのように構想されたホールに対して、音楽家はどのように考えたか?コンペが行われた時に、カラヤンが審査委員会に対して送った書簡は次の通りであった。

 応募作品のなかで、特に抜きん出た作品が一点ある。
演奏者を中央に配することを原則とした設計である。(作品番号は忘れたが、全体が白く座席の部分が金色の模型だ)。この設計はいくつかの点で優秀と思われる。壁面の配置が音響的に優れている上に、何より印象的なのは聴き手が音楽に完全に集中できる点だ。現存するホールの中で、この設計ほど客席の問題を巧みに解決している例を、私は知らない。私も補佐役のヴィンケルも、オーケストラを中央に配するこの設計は、いかなる既存のホールにもまして、ベルリン・フィルハーモニーの音楽スタイルにふさわしいと考える。このオーケストラの第一の特徴は遠くまで届く音と、音楽のフレーズの初めと終わりにおける特別な呼吸にある。したがってこの設計は、本番にもリハーサルにも理想的な場を生みだすことだろう。

 この新しいホールをホームとする音楽家側からの意見が、コンペの実施案を選ぶ際に与えた影響は大きいものであったであろう。建築サイドの審査員だけが、シャロウンの案を推したとしても同じ結果になったかは分からない。カラヤンは、音楽映画をつくったり、自らオペラの演出を手がけたりと、音楽家の中でもとりわけ視覚的なファクターに関心を持つ音楽家であった。そのような資質を持つ音楽家が、シャロウンの案を推したのであった。

4.音響設計と視覚の効果

 音響設計を担当したのは、その方面でドイツにおける先駆的業績を持つクレーマー教授であった。彼は、初期反射音の問題についてシャロウンが忘れないように常に注意を喚起していたが、一方で音楽が中心にあるということに対しては音響設計的には懐疑的であった。シャロウンは、メイン・コンセプトから離れるのは拒否したが、できる限り色々な方法を考えて、クレーマーに応えていこうとした。後にクレーマーは、シャロウンは今まで協働した建築家の中で最も適応力があり、自らのコンセプトをこわすことなく常に音響上の要求に応えることができたと述べている。

 シャロウンが与えた複雑な形態(それは、ホールだけでなく、さまざまなビルディングタイプの建築で追求されていたものであった)は、音響上有利な側にはたらいた。純粋幾何学に基づく円形や矩形は、音の一点への集中や、フラッター・エコーの原因になるからである。フリーフォームの不整形な形態は、形やものの大きさに関する正確な知覚を失わせるものであった。ホールの中心から見た時、ホールは実際の距離よりは小さく、親密に見えるのである。また指向性のあるトランペットやトロンボーンのような楽器や人間による声に対しては、ステージ背後の席は音のバランスをうまくとることができない。しかし通常は見ることのできない指揮者の表情は、見ることができ、その視覚上の情報が聴覚を補っている。このように音楽を中心にというコンセプトに起因する音響上の不利な点は、設計上の工夫によって解決した点もあるが、それ以上にまさにこのコンセプトをもとにデザインされたホールの持つ豊かな視覚的体験によってカバーされ、このホール独自の音楽体験をもたらしているといえる。

5.コンペから建設へ

 そのようにして選ばれたシャロウンの案であったが、コンペ案の時に考えられていた敷地と、実際に建てられた敷地は異なっていた。もともとコンペ案の時に考えられていた敷地は、西ベルリンの中心に近い場所でブンデスアレー通りに面したものであったが、1959年そこから東ベルリンに近いティアガルテン地区に敷地は移された。そこは文化フォーラムとして、都市ベルリンにおける文化施設の集合するエリアとして構想された。それは、東西がふたたび統合された時のことを考えて選ばれた敷地だと言う。(ベルリンの壁が建設されたのは1961年であり、1959年時点では存在していなかった。)フィルハーモニーは、そのエリアでも最初に建設された建築であり、その後隣接して、シャロウン自身の設計による国立図書館(1978年シャロウンの死後竣工。その閲覧室はヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン天使の詩」の重要な舞台となった。)やミース・ファン・デル・ローエによるナショナル・ギャラリー(1968年竣工)が建てられた。それらは、すべてウンター・デン・リンデンなどに建てられた古典主義建築と比較すれば、まぎれもない近代建築であるが、正方形平面による整形で静謐なギャラリーと、シャロウンによるフリーフォームの不整形でダイナミックな建築は、対極的な建築のあり方を示している。東西ドイツが統合されるまで、このティアガルテン地区は、ベルリンの壁に近く西ベルリンにとっては周縁部に位置していたが、統合後は近くのポツダム広場も開発され、当初都市ベルリン全体にとって中心に近い場所として選択された意図が、40年以上たって現実のものとなった。

 ここで特筆すべきは、敷地は変わったが、ホールのデザインと言う点で見れば、コンペ案と実施案は基本的に同じであることである。メインエントランスからホワイエにかけてのスペースが敷地に合わせて変形されたにすぎない。シャロウンのホールのデザインは、敷地の形状から導き出されたのではなく、音楽ホールとして、そのようにあるべきと考えられたものであり、変更すべき理由はなかったのである。

compe1
コンペ時の平面図(1956年)
site plan
シャロウンによる文化フォーラムの構想図(1964年)

6.ホールとホワイエのデザイン

 ここで再びホールに戻り、そのホワイエも含めたデザインについて考えたい。ベルリン・フィルハーモニーのホールは、平面図を見て分かるように基本的にはシンメトリーである。最上部の席の上手に位置するオルガンが左右対称を破る要素となっている。ワインヤード状に配置されたブロック席は、平土間、1階席、2階席といったスタティックな配列ではなく、不整形なかたちのブロック席のかたまりが立体的にずらされながら、その最前列で音響上有効な側壁を形成しながら配置されている。したがって確かに中心軸上に立ってみればシンメトリーを意識することもできるが、少しでも中心軸からはずれて立つと、もはやシンメトリーを意識することはなく、ダイナミックに広がるワインヤードのランドスケープが広がるのである。垂直線や水平線はなく、床はゆるやかに傾いている。視覚的に大きな要素であるオルガンが中心軸上でなく、上部に追いやられていることも、シンメトリー感覚を弱めている。シンメトリーは感じ取れるものではなく、空間を統御する下敷きとなっている。またこのホールで特徴的なのは、大地の変形である座席と天空の変形である天井が卓越し、座席と天井が接する部分にある壁面がほとんど感じられないことである。

 客席は2218席である。そのうち約250席がステージの背後に、約300席がステージ側面に配されている。ホールの大きさは、長手方向には60M、短手方向には55Mであるが、最も遠い席からでもステージまでは32Mである。(ボストン・シンフォニーホールは2612席で、ステージまで40M)この近さ、親密さはステージを客席の中心に配置することで達成されている。ステージ上の天井高さは22Mで、ポリエステル製の音響反射板が吊られている。室容積は、26,000立米である。

 ホワイエのデザインを見ると、メインエントランスは、コンペ案と同様に中心軸とは関係ない位置に配置され、上層へと導くダイナミックな階段群は中心軸とはやはり関係ない方向で宙に浮いている。ホールを訪れた聴衆は、ステージ上手方向にあるメインエントランスから時計回りに大きく弧を描く方向のホワイエを大回りしながら、階段群を通りホールに向かう。赤いステンドグラスとホールを支えるV字型の柱がホールの中心軸を暗示しているが、それをそれとして認知することはできない。したがって、外部からメインエントランスを通り、階段を経てホールに至る経路は、ホールの中心軸とは無関係の動きであり、シンメトリー感覚を感ずることはできない。ホワイエでは視線は弧に沿って流れ、ホールでは視線は中心のステージに向かって集まる。立体的なダイナミックなホワイエの構成は、ホール内部と同じように「見る」「見られる」の関係をつくり出し、ワインヤードホールの序奏/プロムナードとなり、休憩時間にはホワイエはその経路を散策、徘徊する人であふれ活気を呈する。その立体的な経路を散策する経験もまた、このホール独自の音楽体験の一部となっている。

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7.分節から流れへ(アーティキュレーションからフローへ)

 ベルリンと川崎を比較してみた時、両者とも演奏者と聴衆の親密さをもたらすワインヤード形式をとりながら、その違いは客席とオルガンのあり方に見られる。ベルリンの客席がクラスター状のブロック配置の分節(アーティキュレーション)のデザインによっているのに対し、川崎は螺旋状配置の流れ(フロー)のデザインによっている。ベルリンではオルガンは上手上部に押しやられ、川崎はその流れに拮抗してステージ後方の中心に位置している。天井に接する壁面について見れば、ベルリンではその壁面はほとんど感じられないが、川崎ではそれを意識することができる。川崎では、ワインヤードの中で、ブロック配置のアーティキュレーションによらない、新しい流れをつくりだしたといえそうである。

参考文献
“Hans Scharoun” Peter Blundell Jones (PHAIDON, 1995)
“Hans Scharoun” Eberhard Syring, Jorg C.Kirchenmann (TASCHEN, 2004)
“Concert Halls and Opera Houses” 2nd Edition, Leo Beranek (Springer 1996)
「ベルリン・フィルハーモニック・コンサート・ホール」GA20、佐々木宏(ADA EDITA, 1973)
「音楽のための建築」マイケル・フォーサイス(鹿島出版会,1990)
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」リチャード・オズボーン(白水社,2001)

(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会 シンポジウム冊子「ミューザ川崎シンフォニーホール これからの音楽空間のあり方」所収)

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「都市の遺産としての文化施設-佐藤功一と前川國男の建築-」

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1.はじめに

 日比谷公会堂と東京文化会館は、それぞれクラシック音楽の殿堂として、一時代を画した。設計者は、佐藤功一と前川國男である。佐藤功一には、日比谷公会堂に対して早稲田大学大隈講堂、前川國男には東京文化会館に対して京都会館という、ほぼ同時期に竣工した作品がある。この四つの作品は、都市の公園や大学キャンパスの中にあって、それぞれが都市のかけがいのない遺産となっている。このうち大隈講堂と東京文化会館は、近年大規模な改修が行なわれた。日比谷公会堂と京都会館については、大規模な改修は今後の課題であると聞く。ここでは、その四つの作品について、主に建築と都市との関係について考察し、さらに大規模改修された二つの作品については、その大規模改修の内容を概観し、最後に今後文化施設が使われ続けるための用件について考察したい。

 今回の資料集にもあるように、ここ数年の間に日本においても、いくつかの歴史あるホール、講堂に大きな改修が施されている。大都市だけでなく地方においても、本資料集に挙げた奈良県文化会館(1968年開館。1995年大改修。)の他にも、舞台部分を全面改修した熊本市民会館(九州で3番目に歴史の長い公共ホールと言われる。1968年開館。2000年大改修。)など、1960年代に建てられた公共ホールは、現在リニューアル時期を迎えている。ここでは、日本における最も代表的な改修事例である二つの作品が取りあげるが、それらすべてに共通する問題、課題が多くあることを指摘しておきたい。

2.都市への視線-大隈講堂と日比谷公会堂

 大隈講堂は、早稲田大学のキャンパス、日比谷公会堂は、日比谷公園の一角に建つ。共に「塔」が印象的な建築である。しかしその「塔」の存在のありかたは、ずいぶんと異なる。

 大隈講堂では、「塔」を建物の中央からはずし、左右対称によらないファサードとしている。建物自体は、大隈銅像の建つ早稲田キャンパスのメインの広場の軸線に対しては斜めに構え、ピクチャレスクな配置を見せている。「塔」は景観上メインの広場に対して、アイストップにはなるが、正面性を強調することは避け、建物自体もゴシック様式を基調としながら、大隈庭園側に対してはロマネスク風の外廊を備えるなど、周囲の状況に対してゆるやかに対応したものとなっている。

 日比谷公会堂では、「塔」は建物中央に配置し、左右対称のファサードとして、公園広場の軸線を正面に受け止めるかたちに配置されている。建築の内部も左右対称に設計され、軸線の論理が建物内部にいきわたる古典的な配置を見せている。一方街路側に対しては、街路のアイストップとなっているルネサンス様式で水平性の強い建築である日本勧業銀行(渡辺節設計。今は建替えられている。)を意識して、日比谷公会堂は、それとは対照的なゴシック様式の垂直性の勝った建築をデザインとして採用したと言われている。

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 佐藤功一は、都市美について深く関心を寄せた。(英国のレーモンド・アンウィンの都市論に大きい影響を受けたと言われる。)「建築-都市」観の特質について、以下の二点を挙げることができるという。一番目は、「都市の美観を俯瞰的な総合美でなく、路上を歩く歩行者からの視点による美の「連景」とした捉えたこと。」であり、二番目は、「様式・形態・高さなどの統一よりも、むしろ異質な形態の併存がもたらす動的な都市美に着目したこと」である。大隈講堂と日比谷公会堂は、まさに佐藤功一が彼の「建築-都市」観を、それぞれの都市的コンテクストを読み込みながら、実践した建築であったといえる。

 一方で大隈講堂と日比谷公会堂は、佐藤功一のもと佐藤武夫が科学的な音響学によるアプローチによって、ホールの音響性能を音響実験も行いながら追及した。音響学者の石井聖光は、「戦前の建築物で特に音響的に注目すべきものには、大隈講堂、日比谷公会堂がある。」と指摘したように、音響学を実践した建築物のさきがけといえる。

3.都市的な公共空間-前川國男

京都会館は岡崎公園の一角、東京文化会館は上野公園の一角に建つ。共に、「大きな庇」が印象的な建築である。しかしその「大きな庇」の存在のありかたは、ずいぶんと異なる。

 京都会館は、隣接する公会堂を取り込みながら、建物をL字型に配置して、東山へと眺望の開ける中庭空間を設けた。二条通側は、建物をセットバックさせ広い並木道である。その街路空間は、ピロティを介して中庭空間へとつながっている。コンサートホールホワイエは、そのピロティから南北方向に視線が抜けるようになっている。都市的な公共空間は、街路空間から中庭空間へ引き込まれ、さらに内部のホールのホワイエへと連続をしている。「大きな庇」は、バルコニーや手すりの水平線と寄り添いながら、その水平性を強調し、伸びやかに展開している。

 東京文化会館の「大きな庇」は、正面に向き合う師匠ル・コルビュジェの国立西洋美術館と軒高をそろえ、対峙している。人々は、上野駅公園口の角に設けられた共通ロビーから大小ホールのホワイエに導かれていく。都市的な公共空間は、内部に展開し、共通ロビー、大小ホールホワイエは、「大きな庇」の下の一つの屋根の下で統合されている。一辺が約80メートルの正方形で、10.8メートルスパンの均等な柱に支えられた一つの屋根は、内部において都市的な公共空間を作り出し、上野公園の緑をホワイエに取り込んだ。

 前川國男は、設計当時大きな屋根は、「人を招き寄せる、インヴァイティングな意味」を持っていると考えて、設計をすすめていた。大屋根の下は、スチールサッシュのガラススクリーンが入り、透過性を獲得していた。人々は、招き入れられ、公園の緑や街路と一体の公共空間を内部につくりだしていた。都市的な公共空間は、京都の中庭空間や東京文化の内部のホワイエに展開されたといえる。

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4.大規模改修-大隈講堂の場合、東京文化会館の場合

 大隈講堂大規模改修においては、建築が生き続けるためすべきことは3つに分類された。1つ目は物理的な建築性能を健全にすること(耐震性能、外壁タイル剥離・落下への対策、防災対策、雨漏り対策等)である。2つ目は機能向上であり、ホールなどを含め利用者に今日的サービスができるようにすること(冷暖房、舞台設備、座席の幅・前後間隔、バリアフリー)である。3つ目は記憶継承であり、オリジナルの再生など歴史と記憶にある建築の本質を変えないことである。これら三つの要素は、相互に矛盾する選択を迫られる場合が多いが、形を残せば良いと安易に解決を図るのではなく、これからも利用することを重視して設計が行なわれた。そのような相克の中、座席数はオリジナルの1436席から1121席に減り、一方で客席上部の楕円形の採光窓は、そのままにされた。2007年大改修を終えた大隈講堂は、重要文化財としての指定を受けた。

 東京文化会館大規模改修においては、2つの大方針が立てられた。1つ目は舞台・楽屋等の劇場機能はリニューアルすることであり、2つ目は外観・客席・ホワイエの全体意匠は60年代の定着(原型の復旧)を図り、評価の高い音響は維持するということである。サントリーホール、東京芸術劇場、オーチャードホール、新国立劇場などの競合施設が増えたこともあり、大規模改修時は、主用途を何にするかがあらためて議論された。その結果、音楽ホールとオペラハウスの二つの劇場機能が主用途として明確化された。1997年大改修前の最後の「東京文化会館利用者懇談会」で、当時の三善晃館長は、「これまでも東京文化会館は、世界的にすぐれた演奏家を育ててきた。これからも、文化の当事者であり発信者であり続けるためには、どう変わっていけばいいのか、まずは皆さんの意見を謙虚にお聞きしたい。そのために過去の制度や条例を盾にしない。」と挨拶したという。(*1)それまで舞台吊物との取り合いに問題のあった音響反射板の格納方法は改修時の大きな課題であったが、最終的には舞台下に格納することにして、オペラ、バレー等の公演時に舞台演出や照明の可能性を大きく広げる設計となった。

 大隈講堂、東京文化会館両者の大規模改修に共通するのは、経年変化、時代の要請に応えて取り替え、またプラスしていかないといけない「変わる部分」と、改変されたものの復元も含めてオリジナルの良さを残す「変わらない部分」を、どう切り分けていくかと言う課題に正面から取り込んでいることである。その課題に取り組まない限りは、保存再生の道は拓かれていかない。

4.文化施設が使われ続けるための用件

 大隈講堂、日比谷公会堂、京都会館、東京文化会館と四つの建築を見てきたときに、都市の遺産としての文化施設が、使われ続けるための用件として、大きく三点に分けて考えたい。

①都市の建築として

 都市の建築として、すぐれた場所に立地し、その立地に対しての読み込みがされた建築が実現されていること。
 四つの建築すべてが、もともとは公園と街路が接するような位置だったり、キャンパスの重要なポイントだったり、都市の中でもポテンシャルのある重要な位置に敷地が設定されている。加えて、都市や周囲の環境に対して、きわめて周到な配慮にみちた建築である。内部空間だけでなく、都市空間、外部空間もデザインされている。

②劇場建築・ホール建築として

 劇場建築・ホール建築として、ホール空間、ホワイエ空間が一定の質が確保されていること。(ホール空間については、ケースによっては主用途を見直し、デザインを一新するケースもありうるであろう。例えばベルリンのシャウシュピールハウスや東北大学川内萩ホールなど)

 四つの建築すべてにおいて、それぞれ特徴あるホール空間、ホワイエ空間がつくられている。(例えば、大隈講堂客席上部の楕円形の採光窓、東京文化会館大ホールの六角形平面の客席など)

③人々の記憶に残る舞台として

 劇場建築・ホール建築として、その舞台で、人々の記憶に残るパフォーマンスが行なわれてきたこと。
 四つの建築すべてで、人々の記憶に残るパフォーマンスが行なわれてきた。自分たちの体験してきた歴史を忘れてはならないし、歴史は、その場所や建物によって記憶される。

 上記に挙げた建築以外でも、例えば群馬音楽センターの場合は、①都市の建築として、すぐれた場所に立地し(高崎市役所の前、高崎城址)、②レーモンドの優れた近代建築(RC折版のユニークな構造)が建ち、③何にもまして、音楽都市として群馬交響楽団が、地域に根ざして活動をしている。

 また日生劇場の場合は、①都市の建築として、すぐれた場所に立地し(東京宝塚劇場、帝国劇場、日比谷公会堂など劇場街として日本でも有数な日比谷という位置)、②村野藤吾の最高傑作(アコヤ貝を天井に使った幻想的な洞窟のようなホール空間。施工技術的にも、二度とつくりだせない種類のもの。)③こけら落としのベルリン・ドイツ・オペラ公演をはじめとした人々の記憶に残る数々の公演が行なわれてきた。

 このように考えた時、使われ続けていくべき都市の遺産としての文化施設は、日本各地には多くあり、それらは一つ一つ、その価値-立地、建築、使われ方-が検証されていかなければならないのではと考える。

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(*1)「まちなみ・建築フォーラム」1998年2月号、p.70

註)この小論は、下記論文等を参考にした。
・佐藤功一については、米山勇氏の論文「建築家・佐藤功一と都市への視線、あるいは近代の視線」(東京都江戸東京博物館研究報告第2号)に、多くを負っている。
・京都会館、東京文化会館、日生劇場については、本資料集の各論文。
・群馬音楽センターについては、本資料集の論文および下記高崎市役所サイト。
 http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/kouhou/oc/oc-iken.htm

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「香山壽夫の四つの劇場 -公共建築としての劇場・ホール-」

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1.はじめに

 香山壽夫は、日本でも有数の劇場建築家である。この10数年の間に、「彩の国さいたま芸術劇場」(1994年)、「長久手町文化の家」(1998年)、「可児市文化創造センター」(2002年)を手がけ、このたび「日田市民文化会館」(2007年)を設計した。ここでは、今日まで設計されてきた四つの劇場を概観しながら、香山壽夫の劇場建築を通して、公共建築のあり方について考えてみたい。その中で、これら劇場において試みられている市民参加のありようを振り返り、公共建築と市民参加の意義について考察したい。下記が、その四つのホールの概要である。

「彩の国さいたま芸術劇場」敷地面積18,970㎡、延床面積23,856㎡
大ホール(776席)、コンサートホール(604席)、小ホール(346席)
大稽古場をはじめ、大小12の練習室
「長久手町文化の家」敷地面積24,455㎡、延床面積17,488㎡
森のホール(819席)、風のホール(300席)
アートリビング(美術室、舞踊室、音楽室など)
「可児市文化創造センター」敷地面積33,689㎡、延床面積18,415㎡
主劇場(1019席)、小劇場(315席)
美術ロフト、演劇ロフト、音楽ロフト
「日田市民文化会館」敷地面積9,480㎡、延床面積8,902㎡
大ホール(1008席)、小ホール(345席)、展示ギャラリー、スタジオ

 「彩の国さいたま芸術劇場」は県立であり、既存の県立施設にない規模・客席数を持つ専用ホール群と、大稽古場をはじめとする充実した練習室群が特徴である。専用ホール群は、その規模が大きすぎることなく、観客が舞台に集中できる大きさである。他の三つの施設はいずれも地方都市のホールで、800~1000席程度の大ホールと、300席程度の小ホールに練習室群を組み合わせた構成となっている。いずれのホールも、地方都市の中核施設として多目的な使われ方を想定している。(その中で、専用ホール並みの性能を追求している。)市民ユースの練習室群においては、「彩の国」の経験も生かしながら、一歩踏み込んだところでの提案がなされており、それらは「長久手」におけるアートリビングや、「可児」におけるロフトという部屋の命名の仕方に良く表わされている。「日田」以外の施設では、基本構想・基本計画段階から建築計画の清水裕之が参画しており、それら市民ユースのスペースの骨格を構想している。

 「日田市民文化会館」の敷地と延床面積は、この種の施設の規模としては小さい。敷地は、日田駅から程遠くない現市民会館が立地している場所が、選定されている。近年市役所や公共ホールは、駐車場確保の観点などから、まちの中心からはずれて、大駐車場付きの商業施設タイプの郊外型を目指しがちな中、あえて駅に近い場所に敷地を選定し、既存のまちとの連続性を保ち市街地活性化の糧としている点は、敷地の規模の制約にはなっているが、好ましく感じられる。(今回シンポジウムでとりあげられる茅野市民館も、まさに駅前である。)

2.公共建築としての劇場建築

 香山壽夫は、「可児市文化創造センター」までの道程を振り返り、公共建築についての論考で、次のように述べている。「都市の歴史を振り返ってみれば、いかなる時代、いかなる文化においても、人びとは共に集まり、共にさまざまなことを行うための空間を建設してきたことがわかる。なんらかの形での広いオープンスペースと、それを取り囲む一群の建築だ。古代において広場は、屋根のない、総合的な公共建築だったといってよいだろう。都市はまず集まる場所を必要とするのである。」(*1)それらお祝いやお祭り、演劇や音楽などのための場所、共同体の公共の空間は、時代を下るにしたがって、劇場や美術館などに分化、特化し、やがては無数の断片となって、都市のあちこちに散らばっていると指摘する。そして、今、断片化したそれらを、もう一度まとめて、「身近なところ」に引き寄せ、自分たちで使えるものとしたいという機運が生じているという。

 この「身近なところ」に引き寄せ、自分たちで使える劇場が、香山や清水がこの10数年一貫して追求してきたものである。その「身近なところ」に引き寄せる手立てとして「市民参加」がある。「文化ホールはまちをつくる」と言われるように、公共ホールの積極的な運営は地域の活力に大きな影響がある。清水は、実際にその公共ホールの潜在能力を十分に活かすには、ホールをつくるだけでは十分でなく、その運営が市民に開かれ、支えられていることが不可欠であると述べる。(*2)清水によると、市民参加には、基本構想・基本計画段階、設計段階、(工事期間にも重なる)オープン後の段階の三つの段階があるという。「可児市文化創造センター」の市民参加は、この三段階すべてにおいて、公募方式を採用し、実践された。香山は、現場監理よりも前の設計段階から、設計室を可児にかまえ、市民と対話を重ねたと言う。

 上記三段階の市民参加において、清水が最も重視するのは第三段階であり、「本来の文化施設計画における参加の最終目標は、市民による運営参加である。」と、指摘する。市民参加の最終目的が、そこにあるのであれば、オープン後の市民参加のみがあればよく、それまでは市民はかかわらないという方法もあるかもしれない。しかし、自分たちが生み育て、はぐくんだものが愛する対象となるとすれば、その方法では最終目標は達成されがたく、初期段階から参加し、はぐくんだ結果が、運営面における市民参加を生み出すのであろう。(可児の市民参加の実践においては、当初から運営までかかわる市民、はぐくむ段階で力を発揮する市民、運営面で力を発揮する市民など、その市民の指向性によって、活躍するフェーズが異なると聞いた。市民の総体による参加と言えるであろうか。)

 ここで指摘しておきたいのは、「市民参加をしたので、正しいプロセスを経て決まりました。」というだけでは、プロセスの正しさを言っているだけであり、最終目標が達成されたかどうかは別ものだということである。重要なのは最終目標であり、そのプロセスは、その目標を達成するための手段である。その最終目標がはっきり明確でなければ、プロセスそのものが、自己目的化してしまう危険性がある。その最終目標において、より本質的なところで市民参加の「実」をあげるためには、建築設計そのものを行なう建築家の立場とは異なる立場にたつ専門家(可児における清水裕之、茅野における倉田直道)が存在することが望まれる。敷地、予算、要求水準など、すべてを盛り込み、現実の中で格闘しなければいけない建築家とは一歩離れて、都市のあるべき姿、まちづくりなども俯瞰しつつ、そこに参加するすべての人を導いていく専門家である。それはプロジェクト・プラニングの仕事であり、市民参加のファシリテートの仕事である。大変重要な仕事であるが、その職能と役割が周知しているとは言い難い。

 それら専門家による仕事や、建築家が市民参加で費やすエネルギーは、膨大なものがある。行政は、その仕事に対して、十分な理解と認識をするべきである。(茅野における古谷誠章の作業は、大学研究室のボランティア的活動の存在を抜きにしては語れないと指摘される。)何よりも避けなければいけないのは、かたちだけのプロセスのみの市民参加であり、行政の財政の裏づけのないところでの中途半端な市民参加である。正しく導かれた市民参加により、市民は、劇場を「身近なところ」に引き寄せ、自分たちで使えるものとし、劇場は愛されるものとなる。

3.香山壽夫の四つの劇場

 以上のような観点に立って、香山壽夫の四つの劇場を、建築として見てみたい。「彩の国さいたま芸術劇場」は、すでに述べたように大稽古場をはじめとする充実した練習室群が特徴である。できあがったものを鑑賞する場と共に、舞台芸術をまさにつくり上げていく場が、そこにはある。香山は、それら稽古場群をつなぎあわせる軸として、光あふれるガレリアを配置した。コンセプトの上でも、実質の建築としても、それまでは、かげの存在であった稽古場に、光をあてたものといえるであろう。劇場のオモテとウラからすると、今までウラであったものが、オモテの空間性を備えたと言える。どこかで作り出される舞台ではなく、「そこで」つくり上げられた舞台となる。「彩の国さいたま芸術劇場」においては、そのような場にすぐれた芸術監督を迎え、オープン後いくつもの優れた舞台が創造されてきたのは、周知の通りである。一方、外観においては、大ホール、それとは軸を振られたコンサートホールなどがそれぞれの屋根型を持ち、塔なども含めて、いくつかの建築群からなる「まち」のようなたたずまいを見せている。「長久手町文化の家」においては、外観上は、そのマンサード屋根の重なりが、「彩の国」よりも、さらにヒューマンな親密なスケールで展開されている。森のホール、風のホール、アートリビングをつなぎあわせる位置にガレリアが配置され、市民のための場が作り出されている。

 「可児市文化創造センター」の建築で特徴的なのは、その「大屋根」である。水平に伸びる庇状の大屋根は、「彩の国」や「長久手」の屋根の群造形と異なり、一つの水平な「大屋根」が施設全体を一つに統合している。内部にあっては、それが水平の天井面になり、それぞれの機能を担うヴォリュームをおさめている。その銅板の天井面と、フローリングの床面は、施設全体に明確な場を設定している。この可児で生み出された水平に伸びていく「大屋根」のコンセプトは、市民参加により出てくる様々な要求に対して、柔軟に対応できる建築上の仕掛けとなっている。それは、まるで風呂敷のように、どのような内容が与えられたとしても、柔軟に包み込んでいるように見える。まさに市民参加の容れ物としては、最適解であるように思える。そして「日田市民文化会館」である。ここでは、「可児」において考え出された「大屋根」が、また別の敷地のコンテクストとプログラムで展開されている。また大小二つのホールや、スタジオをつなぎとめる軸として、みたびガレリアが登場する。「大屋根」とガレリアは、劇場を「身近なところ」に引き寄せ、市民自らが、自分たちで使い舞台をつくりあげていく場として、この公共空間を作り出している。これから、この屋根の下で繰り広げられる種々の活動に期待をしたい。

(*1)香山壽夫「公共建築は死なず、生まれ変わる」(新建築2002年9月号)
(*2)清水裕之「市民参加の意図と最終目標」(新建築2002年9月号)

(2007年9月 日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会主催
「-参加する劇場から愛される劇場へ-日田市民文化会館 見学会+シンポジウム」冊子所収)

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「伊東豊雄の三つのホールをめぐって」

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1.はじめに

 伊東豊雄は、今回の「まつもと市民芸術館」をはじめ、この10年間にいくつかのホールを設計し完成をさせている。ここでは、「長岡リリックホール」(1996年)、「大社文化プレイス」(1999年)、「まつもと市民芸術館」(2004年)の三つのホールを概観しながら、伊東豊雄のホール建築のデザインについて考えたい。

 「長岡リリックホール」は、700席のコンサートホール、450席のシアター、大中小10室のスタジオからなるコンプレックスである。新潟県長岡市の文教ゾーンの一角に立地しており、近くには信濃川が流れている。(敷地面積39,700㎡、延床面積9,708㎡)長岡市にはすでに1500席の多目的ホールがあったため、音楽と演劇を主とした中規模の専用ホールをメインとしたホールが計画されている。

 「大社文化プレイス」は、600席の多目的ホール、250席の小ホール、10万冊の収蔵能力を持つ図書館からなるコンプレックスである。大社町役場に隣接した、正面性のない不整形な敷地であり、長岡以上にコミュニティ・ユースが求められた建築である。(敷地面積20,400㎡、延床面積5,847㎡)

 「まつもと市民芸術館」は、1800席の大ホールと240席の小ホールを中心としたコンプレックスである。松本駅からつながるメインストリートに面し、街の中心に位置した敷地である。旧市民会館が建っていた敷地は、極端に南北に細長く、この規模と機能を持った建築の敷地としては不適格ともいえる形状をしている。以前に旧市民会館が建っていたという経緯を抜きにしてはありえない敷地であろう。(敷地面積9,142㎡、延床面積19,184㎡)長岡の建物と比べてみれば、大雑把に言って4分の1の面積の敷地に、2倍の床面積の建物が建っていることになる。(平面図参照)その計画与件は、最終的にはそのデザインにも強く影響していると見るべきであろう。

2.「長岡リリックホール」のデザイン:屋根性-ルーフ-の卓越

 「長岡リリックホール」では、十分な広さを持った敷地に対して、楕円と矩形のシルエットを持った二つのホールのヴォリュームは、緩やかなカーブを描いた東西軸に並列に配置されている。全体は浅いヴォールトの大屋根に覆われ、二つのホールのヴォリュームだけが、その大屋根から突き出している。建物の南面には、なだらかな芝生のスロープがつくられ、2階レベルのホワイエスペースへとつながっている。スロープ側からは地下にあたる1階レベルには楽屋等の出演者ゾーンが配置され、上下階で明確にオモテウラは分けられている。構造体の柱列はホワイエのガラス面の外に出ており、大屋根はさらにその構造体の外まで伸びている。その結果、芝生のスロープと大屋根が主たる視覚的要素となっていて、庇の奥にあるガラス面の存在感はうすい。屋根性-ルーフ-が卓越し、建築全体は大屋根が統合している。その意味で、伊東の自邸である「シルバーハット」や「八代市立博物館」の系譜に位置する建築といえよう。

 コンサートホールは、木リブ板の立ち並ぶ楕円形の平面形と、舞台両脇に配した2列のバルコニー席によって、舞台、客席が一体となった明るい音楽空間となっている。シアターは矩形平面のプロセニアム形式の暗い劇場空間となっている。ここでは、伊東自身も述べているように音楽ホールと劇場のオーソドックスな形式(彼はそれを、「ホールという固い形式」と呼ぶ)に基づき、それらに楕円形と矩形という幾何学を与え、それを緩やかな三次曲面の屋根で統合するというデザインになっている。

3.「大社文化プレイス」のデザイン:大地性-アースワーク-の卓越

 「大社文化プレイス」では、不整形な敷地に対して町役場や健康福祉センターを囲むように曲線の周遊路が設定されている。その周遊路に沿って、文化プレイスは建っている。多目的ホールのフライタワーだけが突き出ているが、あとは一つの屋根に覆われている。しかしながら長岡とは異なり、その屋根は庇状となって突き出ることなく、ガラス面やコンクリート打放し面の壁面に出会うところで屋根は終わりになっている。図書館側では、その屋根はそのままのスロープで芝生面に連続している。屋根面と芝生面をあくまで分節して見せていた長岡とは対照的な扱いとなっている。それ故、ここでは大地性-アースワーク-が卓越しており、視覚的に見れば軽く浮遊していた長岡の屋根に対して、大社の屋根はほとんど大地と一体に感じられ意識としては沈み込んで見える。

 一方内部空間では屋根面の下の天井面の連続性は、デッキプレートをストライプ状に一方向に流した天井により強調されている。その天井は、ホワイエ、図書館だけでなく二つのホールの内部にも連続して、全体の内部空間を統合している。その結果、二つのホールは、大きな屋根の下でたまたま壁(多目的ホールは折板状の壁、小ホールは円形の壁)をたてて、そこがホールとなっているように見える。特に大きい方の多目的ホール(だんだんホール)は、その段床がホールの外まで延長され、「だんだんテラス」と命名された楽しい場をつくりだしている。楕円と矩形という固いかたちの中に閉じ込めた専門ホールの長岡に対して、コミュニティ・ユースのホールである大社では、ホール内外の連続性が強く意識されデザインがされている。伊東は、そこで新しい公共施設を開くために、内なる世界を外と明確に隔てている建築の境界へ疑問を呈し、境界思想の変換を説いている。

4.「まつもと市民芸術館」のデザイン:壁性の卓越

 そして、「まつもと市民芸術館」である。もう一度敷地を見てみたい。「まつもと市民芸術館」の敷地は、松本駅からつながるメインストリートに面した南北に極端に細長い敷地であり、大部分は道路に接している。メインストリートとは、北の端の短辺で接しており、反対側の南の端あたりは住宅地が広がっている。敷地形状は北側のメインストリート側の幅が狭く、奥の住宅地側の幅が広いワインボトルのような形状をしている。プログラムによって与えられている1800席の大ホールと240席の小ホールを敷地に当てはめてみれば、誰が計画したとしても奥の住宅地側に大ホールが位置する計画となる。だが、通常普通に考えれば北側のメインストリート側から順にエントランス、ホワイエ、客席、舞台が並ぶ計画となるであろう。プロポーザル時の他の案はすべてそのような配置であったようである。しかしながら、伊東は客席と舞台の順列を逆にして、住宅地側に客席、敷地中心に近い側に舞台すなわちフライタワーをもってきたのである。それは、舞台上手側を広くとる舞台配置であり、その舞台配置という点だけをとってみれば一般的な解とは言えないだろう。その結果得られたのは、長いエントランス階段を上り、さらに大きくまわりこんでホワイエにまで至る長い道行きであり、建物全体のシルエットでいえば敷地中心近くにフライタワーの最も大きなマッスが位置する全体のかたちの構成である。その長い道行きは、劇場空間への道程としてふさわしいものあり、住宅地に面してフライタワーが屹立しない配置は、南側にある大きな木々をできるだけ残すのにも貢献したようである。このような舞台と客席を逆転して、エントランスから大きく回りこむ平面計画は、ヨルン・ウッツオンのシドニー・オペラハウスにも見られる構成である。シドニー湾に面した印象的な貝殻状のシルエットを達成するためには、このような平面計画が必要であった。敷地条件、周囲の条件は全く異なるが、建物全体の中心近くが最も高くなる構成は、そのような平面計画から生まれたのである。

 そのエントランスからホワイエに至る長い道行きは、当初プロポーザル案ではゆるやかな曲面を描くガラス張りのファサードとして構想された。しかしながら敷地周囲に対しての配慮と寒冷地であり断熱性能を向上するために、GRCにおむすび型をしたガラスを象嵌した壁面が開発された。長岡や大社で行ってきた境界面を薄く軽くつくる方法ではなく、不透明であってなおかつユーモラスな楽しさも備えた不思議な壁面が構想され、ボトルシェイプ型の曲面を描いている。「シルバーハット」や「八代市立博物館」の系譜に位置する長岡に対して、そのゆったりとしたGRC壁の曲面に覆われた内部空間は、「中野本町の家」のようだという指摘もあるようである。ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸に見られるあくまで透明で内外が相互貫入するガラス・ファサードから出発して、ブルーノ・タウトのガラスの家に見られる不透明で鉱物質のガラス壁に到達したといえるであろうか。そこでの壁性の卓越は、際立っている。その壁性の卓越は、敷地条件、環境条件に起源を持つものであるが、それらの条件を超えてその鉱物質の壁面は、新たな空間を獲得している。

 大ホールの客席空間は、オペラの上演も意識した馬蹄形のバルコニー形式のものを伊東は提案している。それはヨーロッパで広く見られるオペラハウスの古典型としての馬蹄形平面を下敷きにしたものありながら、軽やかに現代的に解釈され、全体は下部の濃いワインレッドから上部の淡いピンクにグラデーションに彩色されている。波打つ突き板の仕上げは、エッジを照らす照明とも合わさり、エレガントな佇まいである。その内部空間は独自の世界をかたちづくりながら、その馬蹄形のバルコニーの曲面は、一方でホワイエの曲面に響きあっている。大社で見られるようなホール内外の連続性を目指したものでもなく、長岡に見られるようなホールはホール、ホワイエはホワイエという分けを目指したものでもなく、響きあう関係がまつもとでは追及されている。内部空間から辿って見れば、馬蹄形の曲面はホワイエに向かって流れ出し、メインストリートまで届いているといえる。かつて伊東豊雄は三つのホール建築を手がける前に、フランクフルトのオペラハウスの改築のコンペで当選した。それはヨーロッパのオペラハウスの馬蹄形の既存の客席空間に対して、パンチングメタルの天井と照明デザインを提案したプロジェクトであった。伊東は、フランクフルトでの経験(それは部分的な改築というささやかなものであった)から出発し、長岡、大社と醸成の時間を経て、この松本で実りの日を迎えたといえそうである。

参考文献
1.「長岡リリックホール」:新建築1997年1月号
2.「大社文化プレイス」:新建築2000年1月号
3.「まつもと市民芸術館」:新建築2004年7月号およびGA JAPAN 69号
4.フランクフルト市立歌劇場:別冊新建築 日本現代建築家シリーズ12「伊東豊雄」
5.シドニーオペラハウス:GA 54 Sydney Opera House

(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会/劇場演出空間技術協会 教育研修会 共催シンポジウム冊子
「-まつもと市民芸術館-これからの劇場がめざすもの」所収)

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Friday September 15th, 2017

離見の見 -清水裕之試論:「劇場の構図」を読み解くために-

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「ゴドーを待ちながら」の舞台を見たのは、今から十年以上前、旧制松本高等学校講堂であった「あがたの森文化会館」においてであった。その木造洋風建築は、旧制高等学校の講堂として大正11年に建てられた。古い講堂のなかほどには一本の道が据えられ、いつまで経っても現れないゴドーを待ちながら、登場人物たちは、一本の道を左へ行ったり、右へ行ったり、立ち止まって会話を交わしたりしていた。自分が座った目の前には一本の道があり、その向こう側には、こちら側と同じように客席があり、観客が座っていた。道の向こう側の観客は、一本の道の上で繰り広げられるお芝居の観客ではあるが、こちら側から観ていると、まるで道端に座り眺めている無言の登場人物たちのようであり、ちょうど、その向かいあたりにはテレビカメラが1台あった。

「劇場の構図」をひもといていると、包囲型、扇形型、対向型という一連の芸能空間の基本型の他に、もう一つ重要な基本的形態として「道行型の芸能空間」が挙げられている。それは武者行列のような線的な運動を基本とする芸能の空間形態であり、通常は、通路、街路という空間の語彙に伴われて現れるとされる。道行型の空間形態を持つ芸能は、今日でも祭りなどの一行事の中に見ることができるが、古くは「年中行事絵巻」や「豊国祭礼図」のなかにも高度に発達したものとして散見することができるとある。日本の神には、いつも去来性遊行性の性格がつきまとい、よって芸能を培養とする土壌となった神事は、神を召喚する行為から始められねばならなかったとされる。清水は、ここで、さらに思考を進め、長い行程を持つ芸能空間に対して、始点と終点が、線分上の行為として限定された空間内で完結することを要求される場合があり、それを「限定道行型の芸能空間」と名付けている。そして始点終点が顕在化されるか、潜在化されるかにかかわらず、包囲型、扇形型、対向型という空間の静的な広がりに対して、「道行型の芸能空間」は、運動、すなわち時間の変化を基本とする動的な性格によって特徴づけられると論じる。

串田和美演出による、その舞台は、旧制高校講堂の限られた空間の真ん中を二分するようにしつらえられ、まさに「限定道行型の芸能空間」であった。神の不在がテーマであるとも言われる「ゴドーを待ちながら」の舞台が、神の召喚、神の去来性遊行性を一つのルーツに持つ「道行型の芸能空間」で繰り広げられたと解釈することができる。いつまでも神を「待ち続ける」という話が、神が到来するかもしれぬ場である一本の道で行われることにより、その不条理性が一層際立っているということができるかもしれない。ここで言いたいのは、神の召喚の空間とゴドーの舞台を、そのように結びつける解釈が適切かどうかというよりも、そのような連想を思いつくことのできる手がかりが、清水の書にはあるということである。このように、「劇場の構図」は、単純であった観劇体験に深みと奥行きを与えてくれる。「劇場の構図」のなかでは、日本における芸能空間の「型」の考察から出発して、ギリシア・ローマから、20世紀へと繋がるヨーロッパの舞台芸術の考察へと進んでいる。世界のなかの一辺境かもしれぬ日本における芸能空間の「型」を手がかりとして、古今東西すべての劇場空間を分析するという力業が行われている。「劇場の構図」は、ある劇場空間、ある演劇体験をした時、立ち返って開くと、自分にとっての新しい発見と、その体験を深化する手がかりが得られる書である。

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松本で、串田和美と緒方拳によるゴドーを観た後、何カ月かして、ふとテレビを付けるとNHKでその上演の模様が放映されていて、自分がテレビの画面に映っているのが分かった。自分がその場にいた時には、明らかに一人の観客として向こう側を見ていたのに、テレビで見ると自分がセットの一部となって、その舞台の背景の一部と化して登場していた。そのテレビのシーンは、忘れられない光景として深く記憶に刻まれた。自分自身が、その古い講堂のなかにいた時には、自分が舞台の背景の一部などということは思いもよらなかった。後日、テレビの放映を見て、ようやく気付いた有様である。

その著書のなかでの清水のまなざしは自由自在である。演者のまなざしも、観客のまなざしも、あるいはそれを俯瞰してみる神のまなざしも、すべてを兼ね備えているように見える。それは、「劇場の構図」の最初に宣言されている通りであり、「観ることとすることのかかわりの中で芸能空間を捉える」とある。芸能空間の根幹にある演技の精神は、常に観客の目を予想していると書き、集団によって演じられる芸能においては、その空間は、演技を見つめる重層した観客の眼で覆われることになろうと論じる。ここで重要なのは、演者の眼、観客の眼を含んだすべての眼を考察の対象としていることであろう。その空間にあるすべての眼の「個の視点」から芸能空間を論じる。空間のかたちからではなく、まず複数の演者のまなざし、複数の観客のまなざしから考察が始まり、空間のありようへと至る。そこに複数の人間がいることを前提とした人間中心の空間論、劇場論である。文字で書けば、そうである。結論を読めばそうである。がしかし、その結論を読んで分かることと、それを発想し、行なうことはまったく異なる。それができることは並大抵ではなく、清水の分析のユニークさ、新鮮さは、そこにある。

世阿弥が、能楽論書「花鏡」で述べた言葉に、「離見の見」というものがある。『見所より見るところの風姿は、我が離見なり。然れば、我が目の見るところは、我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見るところは、すなわち、見所同心の見なり。』演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識のことをいうとある。この世阿弥の言葉は、演者の心得であり、心得として特に説くということからすると、そこを目標にするということであり、またその境地に達することが、いかに難しいかを言外に含んでいると想像できる。清水は演者のみならず、観客までのまなざしを、いわば「離見の見」をもって想像することができる眼を持っていたということができる。そこには開かれたまなざし、開かれた知性の存在を感じることができる。

「劇場の構図」は、清水にとってのアルファであり、オメガである。劇場研究者として出発し、現実に建てられる劇場の計画、設計を手がけ、そして運営にかかわり世界劇場会議をとりまとめ、さらには広範な領域にわたる環境学の研究教育を主導しながら担ってきたという、清水の活動の実践には、一貫して、その開かれたまなざし、開かれた知性の存在を感じることができる。さまざまな場面において、多くの登場人物と対話を重ね、それを実りある方向に導いていく核は、すでに最初の著作のなか、あるいは著作をつくる過程のなかで見出すことができるといえよう。かつて、ある評論家は「作家は処女作に向かって成熟する」と書いたが、修士論文における芸能空間の分析から構想された「劇場の構図」を序幕とする清水の長い道程を考えると、清水にとっての処女作ともいうべき「劇場の構図」には、清水の思考の出発点が示されていると同時に、今日に至り、これからも続くであろう、清水の活動実践の精神のありかが示されているのである。これからも、折に触れ、手に取って読んでみたい。

(2017年7月「清水裕之先生 名古屋大学退職記念誌に寄稿」

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Wednesday June 14th, 2017

「「劇場・ホール」と「美術館」」

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 「劇場・ホール」で催されるものは、音楽、演劇、舞踊などの舞台芸術/パフォーミング・アーツである。また「美術館」で催されるものは、絵画、彫刻などの平面、立体作品の視覚芸術/ヴィジュアル・アーツである。共に「芸術」アーツで括られるものではあるが、その差異は小さくない。何が違い、どこが似通っているか?ここでは、芸術をささえる空間とそこで行われるものについて考えてみたい。

 「劇場・ホール」で行われるものは、舞台上のパフォーマンスに対して、多人数の人々が座りながら、見て、聴くという状況である。多人数すべての人に対して、座った位置からの視線を確保しなければならない。舞台上の一つの出来事に対して、多人数が見るという形式。一方「美術館」で行われるものは、たいていの場合は、複数の作品を巡り歩きながら、見るという状況である。複数の作品に対して、巡るルートを確保しなければならない。複数の作品に対して、巡りながら見るという形式。そして「劇場・ホール」建築も、「美術館」建築も、どんなにすぐれた建築であっても、そこで何かが催されなければ、ただのハコとなってしまう。

 「美術館」では、常設展と企画展がある。常設展といえば、その館が持つコレクションを展示し、企画展といえば、あるテーマにしたがって展示が計画される。その館のコレクションを用いることもあれば、借りてきてということもある。人々を惹きつける魅力的なコレクションがあれば、人は美術館にやってくる。モナリザがあれば、世界中からルーブル美術館にやってくる。逆に企画展しかない美術館はつらい。毎回毎回新鮮なアイディアをつくりださないと、人々を惹きつけることはできない。

 では、「劇場・ホール」にとっての常設展、企画展とは何だろうか?この場合、企画展の方がイメージしやすい。なぜなら、大部分の劇場・ホール(特に公共ホール)は企画型であるからだ。毎年毎年の予算の中で、どのような企画が立つか、あるいは持ってこれるかを考えて、企画を立てる。では、「劇場・ホール」にとっての常設展とは何か?私は、それをフランチャイズ型の劇場・ホールと考える。レパートリーシステムで運営されるオペラ劇場、あるいはロングランのミュージカル劇場か。定番となり安心して見られる出し物もあり、また一方で新演出の出し物もある。そしてもう少し範囲を拡げて考えれば、出し物だけでなく、フランチャイズでパフォーマンスを行う人もしくは集団も考えられる。墨田トリフォニーホールをフランチャイズとするオーケストラ(新日本フィル)、まつもと芸術館で館長、芸術監督をつとめる串田和美。その劇場・ホールへと出かければ、出し物は同じではないかもしれないが、なじみの人たちの出し物を見ることができる。そこには、企画型のみで成り立っている劇場・ホールとは違う感覚を人々は持つ。見る人も、舞台に立つ人も、館の人も。

 建築にしても演劇にしても、かなり専門的な領域まで踏み込んではいるが、根底にあるのはあくまでリベラル・アーツの一環としての教育であり、その土壌の中で生徒によってはその才能を伸ばしプロの道を選べるように考えている。学校としては、将来のアーティストも、将来の観客や聴衆も、将来のパトロンも育てる責任を持つと考えている。ここで重要なのは、演じる側の人間だけでなく、それを観たり聴いたりする人間、支えサポートしていく人間までも含めて育てていこうとする姿勢であろう。
これからの劇場・ホールに求められるのは、魅力的な常設展を持つ小屋であろう。それには、だれかがフランチャイズにならないといけないのである。だれかがフランチャイズになるということは、全員に平等でなく色がついているということである。公共施設では、平等でないことは嫌われる。しかし、平等を目指して面白くもなく、魅力的でもなく、したがって人もあまり来ない劇場・ホールよりも、ちょっとは不平等であっても、顔があり、魅力があり、したがって人が来る劇場・ホールの方がずっと良いのではないか。一方、これからの美術館に求められるのは、コレクションをさらに引き立てるような切り口を持った企画ではないか。同じ作者、編年順だけが切り口ではないはずだ。

 「芸術」アートをささえる空間とそこで行われるものについて比較検討し、お互いの領域を見ることの意味は、双方の差異を認めつつも自分の領域に何が欠けているかを考え、新しい何かを生み出すためにあると思う。

(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会 シンポジウム冊子「公共文化施設のあるべき姿を探る」所収)

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「劇場と学校をむすぶもの」

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 劇場と学校をむすぶものは何か? 問いは、そこからはじまる。大多数の子供たちが、最初に触れる劇場空間と言えば、それは入学式にのぞむ時の体育館であろう。しかしながら、それは講堂と言って良いものであろうか?屋内運動場としての体育館と、式典、学芸会のための講堂は、本質的には両立するものではない。大空間が必要とされるという共通項に立脚して、大きな多目的スペースとして兼用しているのである。前提となる出発点は、「体育館は講堂ではなく、講堂は体育館ではない。」である。ここでは、小・中学校を中心に考えていきたい。

 小学校であっても、私立の学校では体育館と講堂を分けて設置する計画は以前からあった。例えば大江宏の設計によって1954年に竣工した東洋英和女学院小学部では、体育館と講堂はコの字型の平面の両端に配置されていた。講堂部分は当初から計画として構想されていたが、実際には二期工事として1960年に竣工した。当時発表された時の大江宏の文章(*1)によれば「学校建築に与えられる予算額には、常にある限界があり、この講堂においてもその限界の中で最大限の可能性を探索することにデザインの主眼が集中された。」とある。素朴な材料の単純な組み合わせによってこの学校はデザインされた。学校関係者や設計者は、限られた予算額であっても、また時期をずらしてでも体育館と講堂は個別に建てられるべきという考え方に立っていた。(大江宏の手になる校舎は、近年惜しくも建て替えられてしまったが、新校舎においても体育館と講堂は計画された。)

 一方、地方の小規模校では、近年コミュニティの核として体育館と講堂を個別に設け、地域に開いている例がある。福岡県山田市の下山田小学校(鮎川透設計)の250席の固定席をもつ白馬ホールや、富山県利賀村の「アーパスとが」(藤野雅統設計)のアーパスホールなどがそうである。(*2)ここでは、「アーパスとが」について触れてみたい。「アーパスとが」は、鈴木忠志による国際演劇祭で知られる富山県利賀村に小学校、中学校、中央公民館からなる複合教育施設として建てられた。(*3)子供から大人まで、幅広い層の村民の活動の中心をつくることを目的にして、さまざまな年齢の人々が集まることによる学習・教育効果や、重複する機能を共用し、各スペースの質が高められることが期待された。約150名を収容するホール、図書室、研修室、和室などからなる公民館部門は地域に開かれ、体育室は小・中学校共用となっている。教育委員会までがこの施設に入っていて年齢や生涯学習などといった枠にとらわれない学習の場となっている。「アーパスとが」(APS:All Person’s School)という名称は、子供たちからの公募によって名づけられた。今までの学校建築、公民館建築、ホール建築といった施設計画の枠にとらわれない柔軟な発想と、地域の人々との話し合いのプロセスが、新しいあり方の学校を生み出していると言える。

 小・中学校ではないが、複合施設である利点を生かし、体育館と講堂を設けている例として私どもが設計している奈良県医師会センター(仮称、2002年春竣工予定)を挙げることができる。奈良県医師会センターは、医師会のための医師会館部門と、医師会附属の看護専門学校部門からなる複合施設である。学校部門は体育館は持つが講堂は持たず、会館部門は250席の講堂を持つ。看護専門学校の入学式、戴帽式、卒業式などの学校行事は会館講堂で行われる。一方、医師会の方でも、会議室が足りない時などには、学校の視聴覚室やその他の諸室を使うことができ、相互乗り入れができるようになっている。それぞれの建物が個別にあるのではなく、併設して複合化されている点を活かそうという考え方である。

 ここまでは、体育館と講堂について一つの敷地に個別に設けるという出発点の前提に沿って考えてきたが、大都市圏であれば学校近くに立地しているコミュニティ・センターや劇場・ホールとの日頃からの連携も考えられるだろうし、学校側からのアウトリーチ、劇場側からのアウトリーチなど、地域や立地の状況に合わせて一敷地にこだわらない柔軟な対応の考えられる課題である。また出発点の前提の対極の考え方として、体育館や屋外の大階段など日常的に使われている場が、ある日突然姿を変え非日常的なパフォーマンスの場に変身するという方法も、設備面を含めた場所のしつらえと状況によっては、大変魅力的であるという点も忘れてはならないと考える。

(*1)「建築文化」1960年10月号。戦後の学校建築計画研究の初期の成果として知られる旧宮前小学校の竣工が1955年。
(*2)「新建築」1999年12月号に、両校は掲載されている。
(*3)「スクール・リボリューション-個性を育む学校」長澤悟・中村勉編著(彰国社、2001年7月)に詳しい。
(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会 シンポジウム冊子「教育資源としての劇場・ホール その1」所収)

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「劇場と学校をむすぶもの」その2

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 「教育資源としての劇場・ホールその1関西編」において、「劇場と学校をむすぶもの」について「体育館は講堂ではなく、講堂は体育館ではない。」という考え方を出発点として論じた。大空間が必要とされるという共通項に立脚してはいるが、屋内運動場としての体育館と、式典、学芸会のための講堂は、本質的には両立するものではないと考えた。今回はその考えをベースとしながら、米国コネチカット州にあるホッチキス・スクール(*1)を例にとって「劇場と学校をむすぶもの」について考えてみたい。

 ホッチキス・スクールは、1892年米国東部コネチカット州レイクヴィルに設立された。レイクヴィルは、ニューヨークのほぼ北、ボストンのほぼ西に位置し、どちらからも車で数時間の距離にある。ボストン交響楽団の夏の音楽祭で有名なタングルウッドやシェーカー教徒の町として良く残っているハンコックもそう遠くないところである。ホッチキス・スクールは、日本の中学生・高校生にあたる年齢層の生徒たちのための原則全寮制の男女共学の学校であり、多くの卒業生がハーヴァード大学等の名門校に進学するプレップ・スクールとして知られている。

 ホッチキス・スクールのカリキュラムは、全人教育を目指し、リベラル・アーツ「教養」を修得するためのさまざまなコースが用意されている。英語、数学、歴史などの基礎科目に加え、芸術系の科目がある。芸術系の科目はアート、舞踊、演劇、音楽、写真などに分かれ、生徒の希望によって選択できる。ちなみにアートのコースの中には、建築についての授業もあって、製図のしかた、模型の作り方からはじまり、ビデオやスライドなどを使った建築史、簡単な設計課題をこなす内容となっている。

 演劇のコースは、「太古の時代から演劇は、宗教的な信念、政治的な展望、社会的な関心、悲しみや喜びを表現する大事な方法であった。」と大きく位置づけられ、その教育内容が考えられている。発声や演技の練習に加え、脚本作り、舞台のデザインやメイキャップなどの製作のための技術、演劇の歴史等トータルに学ぶ内容になっている。映画や生のパフォーマンスを見ながら学び、最終的には自分たちで一つのプロダクションを作ることを目標にしている。

 建築にしても演劇にしても、かなり専門的な領域まで踏み込んではいるが、根底にあるのはあくまでリベラル・アーツの一環としての教育であり、その土壌の中で生徒によってはその才能を伸ばしプロの道を選べるように考えている。学校としては、将来のアーティストも、将来の観客や聴衆も、将来のパトロンも育てる責任を持つと考えている。ここで重要なのは、演じる側の人間だけでなく、それを観たり聴いたりする人間、支えサポートしていく人間までも含めて育てていこうとする姿勢であろう。

 ホッチキス・スクールの建物は、そのような活動を支えていく器として考えられている。ゆったりとした敷地のメインアプローチの奥にはメインビルディングが構え、その本館を囲むようにいくつかの寄宿舎が配置されている。(配置図および鳥瞰写真参照)体育施設群は道をへだてた東側にある。本館は、南からのメインアプローチの軸線に対して、ほぼ左右対称に構えていて両翼のウィングには、チャペルと図書館が配置されている。660席を持つ劇場は、建物の中心軸上のメインエントランスの奥に位置している。入口階の1階から見れば地下階であるが、敷地は北側の湖に向ってゆるい北下がりの斜面であるため実際は地下ではない。地階にはさらにダンススタジオとブラックボックスのスペースが配置されている。(1階、地階平面図参照)

 配置図、平面図を見ると、この劇場がまさに校舎群の扇の要として学校全体の中で重要な位置を占めていることが分かる。それは単に配置上のプラニングの結果というよりも、演劇を含めた舞台芸術に対するこの学校の位置づけの反映であるといった方が適切であろう。現在劇場の西側には、音楽のためのリハーサル室群が増築案として考えられている。東側も更に将来の増築が考えられている。 米国におけるホッチキス・スクールの例は、「劇場と学校をむすぶもの」についての最も理想的な例の一つであろうが、学校の理念や、それに基づくカリキュラムがまずあって、建物施設群はそれらを具現化したものである点-理念がまずあり、そのための器として建築が存在する-という点が、実は最も大事な点であり、学ぶべき点ではないかと考える。

(*1)ホッチキス・スクールについては、卒業生であり、かつ現在同校評議員の中地真理氏からの資料に基づく。米国弁護士でもある中地氏は、ニューヨーク在住でミュージカルや演劇のプロデューサーとして活躍中。
(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会 シンポジウム冊子「教育資源としての劇場・ホール その2」所収)

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全景写真
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配置図
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1階平面図
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2階平面図
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「個性的な小さな点からの発想」

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 これからの都市の中で求められていくのは、個性的な「点」からの発想ではないだろうか? 個性的な点が集合することにより、あるいは個性的な点が都市域の中で離散的に配置されることにより、より多様性をもった都市になるのではないだろうか。「個性的な点からの発想」について劇場・ホールという観点から見てみると、それは次のように考えられる。現在までに、日本の主要都市においては、ある規模を持ったホール、とりわけ多目的ホールが建設されてきた。隣接する自治体に同じような内容の多目的ホールが建てられる場合もあった。ある時期から多目的ホールの限界が指摘され、今日都市域においてはより専門性をもったホールの建設に移行してきている。主要都市においてそれらホールが一通りそろった今日、そのような大型の施設に対して、小さな規模のホールを少しずつ戦略的に配置することが、今後より可能性のあることであると考える。

 小さいということは、ハードとしての現実性を考えた時に、敷地の規模、建設費、建物ができたあとの維持費の点で有利であるということもさることながら、ソフトとして容れものとして考えた時、よりその都市の市民にとって使いやすい規模であることを意味する。演劇、音楽、ダンスなどある特定の分野に使用目的を特化すること、あるいはその地域においてすでに盛んな活動をしているグループ等にターゲットをしぼり、なるべく使われる施設を目指すということが、その目的である。そのような施設が都市域の中で集合する-例えば小さな音楽ホールと小さな劇場をもった生涯学習センター-あるいは都市域の中のいくつかの大事なポイントに、小さなホールや美術館などが離散的に配置されている。と、いったことが「より多様性をもった都市」になるためのシナリオである。

 奈良市に音声館(おんじょうかん)という小さな建物がある。東大寺大仏殿前にある国宝金剛八角灯籠の火袋四面に描かれた音声(おんじょう)菩薩に由来する館名をもったその建物は、わらべうたをはじめとする歌やコーラスを楽しむ場として「ならまち」に建設された。

 「ならまち」は、古都奈良の中で最も古くからの街並みを遺したエリアである。奈良時代の平城京の東部に突き出た外京と呼ばれていた場所のうち、元興寺の旧境内を中心にした一帯が「ならまち」と呼ばれている。

「奈良町」という呼称は、江戸時代から続く町々を総称した呼びかたであり、(したがって行政地名としては存在しない)その範囲は主として昭和初年頃までの奈良市街地の大部分を占め、多くの神社・仏閣とともに町家群が道路に面して軒を連ねている。
音声館は、そのような「ならまち」の中にあって歌声による街づくりを目指している。建物は、100席程度のホールと20~30人が練習できる二つのプレイルームと三つの個人レッスン室で、ほとんどすべてである。

 1982年わらべうたを歌う子供たちのコーラスから始まったその活動は、1994年音声館が誕生し、その活動のホームとなる場所を得た。活動からスタートし、その後に容れものができてきたというプロセスである。音声館設立の主な目的は、世代交代や地域社会の変化に伴って失われつつある伝統的な芸能の継承や、わらべうたの調査・研究・普及であり、奈良市出資の財団法人「ならまち振興財団」によって運営されている。催し物は大部分が主催事業であり、館長をはじめ10人程いる館のスタッフのほとんどは音楽系大学の出身で、スタッフ自らが企画・指導・演奏を行なっている。市長を含め行政のサポートを受け、その活動は地域的には奈良吉野の村々やさらに海外へまで、内容的には音楽療法にまでその広がりを見せている。

 「ならまち」の中に音声館ができることによって、JRや近鉄の奈良駅からの人の流れは、少しずつ変わってきた。音声館の近くには、やはり市立の小さな建物である杉岡華邨書道美術館、なら工藝館などがその後建てられ、人の流れははっきりと変わり、「点」から始まったものは今や確実に「線」となり旧い街並みの「面」が新たに再構成されていく様相を見せている。杉岡華邨書道美術館は、奈良市在住である文化功労者の書家よりの寄贈の作品を、またなら工藝館は漆器、赤膚焼、筆、墨など奈良の工芸品を展示している。

 このように都市の中で蓄積されてきた、さまざまな固有の文化を掘り起こし、個性ある「点」を戦略的に配置する-すなわち布石を打っていくことが、今後の都市にとって重要なことであると考える。大規模な面的な再開発による腕力にたよった都市の再編よりも、知恵をしぼった「点」による都市の再編の方が、これからの環境指向の世紀にあってはより望ましいことであると考える。

(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会 シンポジウム冊子「都市資源としての公共ホール」所収)

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