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Wednesday June 14th, 2017

「ルイス・カーンとは誰か」/「ルイス・カーンの全住宅 1940-1974」

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ルイス・カーンにとって、建築家としての原点は教師にあり、建築の原点は住宅にあった。彼にとってそれは日々の活動の原点であり、日々建築を創り出していくための糧であった。香山壽夫による「ルイス・カーンとはだれか」は、カーンの下で学んだ著者が、「建築家としての原点」とそこから生み出されたカーンの考えを、熱情にあふれた美しい言葉によって明らかにした書である。それは師に接して40年ほど経って、はじめて紡ぎ出されたものである。斎藤裕による「ルイス・カーンの全住宅」は、カーンにとって「建築の原点」である全住宅作品の写真を中心につくられた書である。彼の73年間の人生のなかで、計画案も含めると50件近くもの住宅プロジェクトを手がけていたという。その中で個人住宅は20件、そのうち実現したのは9件であるという。著者は、現存するカーンのすべての住宅を訪ね、四季を通して写真を撮り、施主と話をし、ペンシルベニア大学のアーカイブで図面を調べている。この二つの書は、カーンや著者の思索の跡がうかがえる多くの美しい言葉と写真、スケッチと図面に満ち溢れている。以下、いくつかの言葉を自由に引用させて頂く。

カーンは、どんなに忙しい時でも、必ず時間には教室にあらわれた。最多忙の建築家が、常に自分は先ず第一に教師であり、次に建築家なのだと言っていた。「修道士達は、どんなに忙しい仕事の時にでも、必ずお祈りの時間には聖堂に来る。私にとって教室とは、修道士にとっての聖堂なのだ。」カーンは比類ない教師であった。教えることによって、自ら創り出したのであった。自ら発見し創り出すことの中に、学生を誘いこむことによって教えたのであった。(*1)

カーンの授業は、いつも、黒板の前の大きなテーブルを丸く囲んで行われた。学生ひとりひとりの製図机の間を巡って、個別に指導を与えるというような、通常のやり方をカーンはとらなかった。学生のスケッチや図面の上に、スケッチを重ねたり、手を入れることもしなかった。授業は常に、カーンとクラス全員の学生との問答、対話として行われた。(*1)

カーンは生涯を通じて、都市計画、美術館、工場、研究施設、学校、宗教施設などを手がけてきた。だが、「どんな建物も、家なのです。それが議事堂であろうと、個人のための住まいであろうと」というカーンの言葉が示すように、どんなに大きな、公共性の強い建物であろうが、彼がまず取り組むのはその空間の「始まり」への探求であり、そこは人間が暮らし、集う部屋であり、家を起点とするものだった。(*2)

ルイス・カーン事務所の製図板の上には、東パキスタンやアメリカ各地で進行中の大計画と並んで、いつも住宅の計画が置かれていた。都市計画のレイアウト図に手を加えた色鉛筆で、住宅の詳細図と取り組んでいるカーンの姿があった。なぜなのか。カーンにとって、住宅はすべての建築の始まり(ビギニングス)であった。住宅は数多くある建築のさまざまなタイプのうちのひとつ、というものではない。ましてや、最も簡単で、初歩的なタイプのひとつ、というものではない。住宅のうちに、人間のつくるすべての建築の根源、初源の姿が秘められている。カーンのいうビギニングスとはそのようなものである(*2)。

そこには小さな住宅のディテールの中に建築のあるべき姿を追い求め、学生との対話の中で建築の本質を追い求めるカーンがいる。建築の立ち返る原点として、人間が暮らし、集う部屋のある住宅があり、建築家の立ち返る原点として「良い質問は、常に良い答より優れています。」と言っていた教師があった。自分自身の立つべき座標軸の原点を忘れず建築の初源の姿を追究するためには、常に学生と対話することと住宅を設計することがなくてはならぬとカーンは考えていた。

今まで聴き慣れていた曲が新たな解釈と演奏によって、今まさに生まれ出た新鮮な曲に聞こえることがある。優れた解釈と演奏によるリアリゼーションは、その作曲家に新たな光をあて、新たな視点をもたらす。この二つの書は、それぞれ美しい言葉と写真によってカーンの創作活動の根源を明らかにしている。新たなリアリゼーションによって、カーンに新たな光をあてている。ふかく考えられた言葉と、四季を通じて住宅の姿をディテールに至るまで写した写真は、パッションと同時に醸成の時間を必要としたものであろう。それゆえ、この二つの書は一読して終わるものではなく、折りに触れて立ち返るべき書であろう。われわれの前に、カーンはまた新たな姿で立ち現れている。

(「住宅建築」2004年2月号)

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「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」

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近代建築の巨匠と呼ばれるフランク・ロイド・ライトとル・コルビュジェは、それぞれ異国である日本の東京に建つ建築を設計した。ライトは帝国ホテルを、ル・コルビュジェは国立西洋美術館を設計した。共に自らの活動のベースであるアメリカやフランスでは当時手がける機会のなかった大規模で公共的な建築の設計であった。ライトの帝国ホテルは、1923年すなわち大正12年9月1日、関東大震災のあったその日に落成式の日を迎えた。第二次大戦後、不同沈下が引き起こした亀裂に起因する漏水、凍害による大谷石の落下の危険等を理由として取壊し改築が決定され、竣工から44年目の1967年から解体が行われた。中央玄関部分は明治村への移築が決定され、1980年に再現公開された。一方国立西洋美術館は、1959年に落成し、39年後の1998年に免震レトロフィット工法による保存改修が行われ、現地でそのままの形で耐震補強が施され、前川事務所による増築も行われた。共に竣工後、約40年を経て大きな改変時期を迎えたが、建った時期、ビルディング・タイプの違い等によるその結末の違いは、両極端であると言える。

その帝国ホテルの解体に際して、村井修氏による写真と共に、早稲田大学の明石信道教授によって約1年間に渡り詳細な実測が行われ図面としてまとめられた。それらは、明石教授の論考と共に1972年B4版変型420ページの大部で高価な著「旧帝国ホテルの実證的研究」として刊行され、明石教授はその業績により1973年日本建築学会賞を授与された。ライトの建築は、図面が出来上がり現場に入ってもスタディは続けられ、それは建築の完成まで終わることがなかった。従って、設計の際の図面と竣工した建物とは別ものであり、解体の現場に身を置いて中の構造、仕組みも見つつ実測しながらつくられた図面は、設計図でもなく、また表面だけを測った単なる実測図でもない独自の価値を持つものとなっている。香山壽夫は、それを「ライト建築の『解体新書(ターヘル・アナトミア)』」と評している。その今や入手できない大部の著が、今回約30年ぶりにA4版変型168ページの書として甦った。図面、写真、テキストなど主要なものは収録され、手に入りやすく、見やすいかたちに編集されている。帝国ホテルの建築の全体像から、細部の装飾、家具までを図面、写真、論考と多面的に読むことができる貴重な書である。

(「住宅建築」2004年8月号)

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失われた時を求めて 「萬來舎-谷口吉郎とイサム・ノグチの協奏詩」

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 その美しい名前を持った建築と庭園は、今や失われてしまった。その名を、『萬來舎』と言う。三田の丘に建つその建築は、教職員・塾員・塾生の交流の場として、「千客万来」の意味から名づけられた。その学校を創設した福澤諭吉は、「演説」の大切さを説くとともに「交流」の持つ役割を高く評価した人物であった。『演説館』と『萬來舎』は、かくして隣接して建てられた。その後『萬來舎』は、幾度か改築され場所も移されたが、1945年戦災により取り壊されてしまった。1952年谷口吉郎とイサム・ノグチは、その精神をよみがえらせるべく、新しい創造の道を模索した。

 そこで建てられた新しいその建物は、またの名を第二研究室と言い、教員たちのための研究室群と談話室からなるものであった。「く」の字の平面形を持ち、谷口の美意識によってデザインされた縦長の窓を持つ、清らかな建築であった。『萬來舎』の精神に立ち戻り、『演説館』に寄り添うようにして建てられた。「く」の字に曲がる壁面に導かれた視線が、その先の『演説館』のナマコ壁にたどり着くように、建物は配置された。イサム・ノグチは、この『萬來舎』のために、「無」「若い人」「学生」と呼ばれる三つの彫刻と庭園をつくり、談話室は、谷口、ノグチ二人の共同によってつくられ、「ノグチ・ルーム」と呼ばれるようになった。談話室は、アプローチの道側、庭園側共にガラス張りになっていて、その箇所だけは、アプローチ側から見たときに透過して、庭園側まで見通せるしつらえになっている。後年、単なる彫刻家にとどまらず、庭園をデザインし、空間をつくりだし、環境を造型することになるイサム・ノグチの芸術家としてのすべての萌芽が、ここに見てとれる。出来上がった彫刻が置かれたのではなく、彫刻を置かれる場を共同でつくりつつ、かつ彫刻もそれにあわせてサイト・スペシフィック・アートとしてつくられた。そのように見てきた時『萬來舎』は、単に「ノグチ・ルーム」と、その周辺だけを指すのでなく、建築の建っている位置、そのかたち、談話室のしつらえ、三つの彫刻と庭園を含めたその総体が、まさに『萬來舎』と呼ぶべきものであり、それらこそが谷口とノグチが『萬來舎』精神をよみがえらせるために考え抜いた結晶であったはずである。

 その失われた『萬來舎』は、この小さな本の中に記憶されることになった。建築と彫刻と庭園からなる詩は、イサム・ノグチ自身、平山忠治、安齋重男による写真、谷口、ノグチらによる文章、そして図面や解説によって、その総体とは何であったのかを、この本の中でたどることができる。今は存在していない『萬來舎』に潜むメッセージは、この本の中に書きこめられ、次代に継がれることになったのである。

(「住宅建築」2007年2月号)

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一つの近代建築の誕生譚 「パレスサイドビル物語」

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 皇居清水濠のほとり、竹橋のそばに、「パレスサイドビル」と呼ばれる、その建築は建っている。言うまでもなく日建設計林グループによる、日本のオフィス・ビル建築史上に輝く作品である。ガラス・ファサードにおおわれた執務空間-二つの矩形の空間と、特徴的な二つの円形のコアによって構成された平面型は、すでに多くの者によって語られてきた。もう少し、その建築の成り立ちを知る者は、その構成が変形した敷地形状と、新聞社の印刷工場を地階に配置することから導き出されたエレガントな回答であることを知っている。本書では、その回答が常識では考えられないような厳しい過程を経た結果、生み出されたものだということを知ることができる。

 パレスサイドビルは、毎日新聞社、リーダース・ダイジェスト社らを建築主とする建築として構想された。毎日新聞社にとっては、新聞発行のための印刷工場を内包する本社屋である一方、貸しオフィスや、地下鉄駅と接続する商業空間を持つ複合都市建築であり、当然ながら経済性は追求されるべき建築であり、工期も非常に厳しいものであった。本書を開くと、起工式の際に掲載された新聞発表紙面を見ることができる。それは、完成した姿とは似ても似つかぬセンターコアの横連窓ビルの透視図であった。林昌二によれば、それは設計が決まらぬうちに要求されて、やむなく描いたものだったという。その後、地階の印刷工場や、米国製大型車のための駐車場を持ち、かつ経済性に優れた円形ダブルコアのプランが産み落とされた。新聞発表までして世に周知されたと思われる案は、捨てられる運命となった。

 世に単体の建築を扱った書物は、少なくない。その多くは、設計者、施工者をはじめとする建築サイドによって編まれる。しかしながら本書は、建築主である毎日新聞社自らによって編まれた書物である。厳しい過程の末に完成した建築に対して、建築主が何を感じ、この四十年間使いつつ、過ごしてきたかは、建築主自らが本をつくるという事実が雄弁に物語っていると言えよう。毎日・リーダース会館とも言うべきパレスサイドビルは、建築主により「パレスサイドビル」と名づけられた時、単なる建築主に奉仕する建物であることを越えて、お堀端に建つ真の都市建築となったのである。建築主は、その名前を選んだ時、その建築が優れた都市景観の一部となることを望み、そのことを設計者に求め、設計者もまたそれに応えたのであった。今なお古びない多くの技術的解決の解説や、空撮などによる現在の姿をおさめた写真など、本書は一つの優れた建築の記録であり、同時に未来への伝言である。

(「住宅建築」2007年2月号)

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「ハウジング・コンプレックス-集住の多様な展開」

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 集合住宅の設計は、日本では1970年代以降建築家にとって重要なテーマとして、さまざなな提案や議論が展開されてきた。「ハウジング・コンプレックス-集住の多様な展開」と題されたこの書では、18の建築を通してその主題から広がった集合住宅の多様な様相を明らかにしている。

 公団住宅が、昭和40年代後半に量から質への転換、ニーズの多様化、敷地規模の狭小化などへの対応により標準設計を廃止し、一団地、一住戸ごとの個別設計へと転換していったのと時を同じくして、1970年代以降に建築家たちは集合住宅の中にさまざまなアイディアを盛り込んでいくつもの優れた建築を生み出してきた。 この書ではその30年間にわたる集合住宅設計の展開を見るために、複数の集合住宅を手がけてきた18人の建築家を選び、その上でそれぞれ一つずつ計18の建築を選んでいる。 筆者たちは今の時点で改めてその建築の建つ地に足を運び、時間が経過した中で、それぞれの集合住宅の生活空間に目を向けようとしている。

 内井昭蔵の桜台コートビレジや坂本一成のコモンシティ星田のように、その建築家の代表作と言える建築を選ぶ一方で、槇文彦は代官山ヒルサイドテラスではなく金沢シーサイドタウンを、藤本昌也は水戸六番池団地ではなく広島市鈴ヶ峰住宅第Ⅱ期を選んでいる。公営によるものと民間のデベロッパーによるものはほぼ半々であり、コーポラティブによって建てられたものにも目を配っている。それらのことからも、この30年間の集合住宅の展開を18の建築を通して全体として幅広く見ていこうとする意図が伺える。

 竣工後時間を経てきた今のハウジングの状況を丹念に生き生きと撮影した多くの写真と共に、配置図、住戸平面図を基本として重要な部位についてはディテール図が掲げられ、足を運んだ筆者によるリアルな観点から説明が加えられる。その説明は、時に同じ建築家による他の集合住宅にも及んでいる。それは生活の器としての集合住宅をいかに読むかという問いに対する優れた解答であり、同時に生活の器としての建築に対する優れた批評となっている。 時間という容れものの中で、生活空間がいかにデザインされてきたかを読むうちに、時がかたちづくる集住の豊かな風景を展望し、次の展開への糧を吸収することができる。

(「住宅建築」2002年2月号)

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空間の構成を超えて 「現代建築解体新書」

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 富永讓の編著による『近代建築の空間再読』なる本がある。近代建築の巨匠たちによる24の作品について、近代建築様式でつくられた建築における形の言葉、形の構成法を、描き下ろしの図面と模型によってつまびらかにした本であった。小説や文章を読むのは楽しくても、その国語の文法や修辞法について学ぶのはつまらない。音楽を聴くのは楽しくても、その音楽の構造をアナリーゼされてみても楽しくない。そんなことは、一般論としては言えそうだ。いろいろな要素をはらんだ全体像は、骸骨を取り出したものとは全く違う。まさしくその通りである。だが例外はある。上記の書は、その例外にあたる。実作者としての「目」と「手」が、形式論、様式論に陥ることをまぬがれ、その例外を生み出している。『現代建築解体新書』は、その「目」と「手」が、21の現代建築作品と向き合った成果である。

 『近代建築の空間再読』は、「面とヴォリューム」、「床」、「上下を移行する装置」、「柱と壁」、「天井」、「家具」の6章に分かれている。一方『現代建築解体新書』は、「工業と大衆社会のランドスケープ」、「場所と文化の遺伝子」、「身体的環境」、「近代建築というコンテクスト」、「消費社会のシンボル」の5章に分かれている。その章立てと内容から読み取れるのは、後者『現代建築』は、前提として前者『近代建築』の理解が不可欠であろうが、同時に『現代建築』の分析や理解のためには、空間の文法は必要だが、それを超えた切り口をそなえていないといけないということであろう。それは、両書において描き下ろされた図面を見ると、一層良く分かる。前者では、一貫して単色の線描による図面であるが、後者は二色刷りを駆使した図面になっている。それらは、ある時は内部と外部を分けるものであり、ある時は断面線と見えがかりを分けるものであり、ある時はその建築に固有な建築要素を強調したものである。それらは、現代建築の複雑なありようを解読するための有効な補助線となっている。ここでは、おそらく二色図面であるということが、分析のためには不可欠な必要なツールなのである。

 自身すぐれた実作者である建築家による透徹した眼差しが、幾層にも積層した多義的な現代建築を見通し、次の創造への手がかりを与えてくれる。優れた知性を持つ分析者と、あつい人間としての作り手が一人の人間のうちに同居しているという点で、私はここで、自身すぐれた作曲家であり、その透徹した演奏で著名な指揮者ピエール・ブーレーズを想起する。

 『近代建築の空間再読』と『現代建築解体新書』をあわせた合本、それももし可能であればル・コルビュジェ全集のようなA4版横開きの合本を望むのは、私だけであろうか。

(「住宅建築」2007年8月号)

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