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Wednesday June 14th, 2017

「音楽空間への誘い  コンサートホールの楽しみ」

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 音楽空間として存在するホールは、全体性を持った一つの空間であり、音響性能として数値で測られるのは一側面にすぎない。住宅が断熱性能として数値で測られるものではあっても、性能を超えた一つの器であるように、それらの空間は計画学や性能を超えてデザインされるべきものであり、そのような空間を持たないホールや住宅は、ただの建物である。

 「音楽空間への誘い」と名付けられたこの本では、その音楽空間にかかわる多方面の人たちへのインタヴューを通じて、音楽空間の持つべき多様な像に光を当てている。作曲家、指揮者、ソリスト、オーケストラのメンバー、コンサートのプロデューサーの語るホールの像は、ホールの音や響きの話だけでなく、ホールの持っている視覚的側面や都市の中でのホールの立地にまで及んでいる。一方建築家の側からは音楽ホールの楽しみ方、歴史、そのデザインに対して考察を加えている。

 ヴァイオリニストの千住真理子は、「ビジュアル面は大切で、音を出している以上にいろいろな刺激や先入観を、目を通して相手に与えてしまう。」と考える。また指揮者の大友直人は、「通常アンサンブルをする時は、耳だけでなく視覚の要素がものすごく大きなウエイトを占めています。視覚以外の全ての感覚を使っていることは間違いないのですが、視覚が音楽に与えている影響力には想像以上のものがあります。」と述べる。「観る・観られる」の関係にある演奏者と聴衆に対して、視覚面を含めたホール空間は、全体として大きな影響を及ぼしている。また指揮者の井上道義は「市役所、コンサートホール、美術館といったたくさんの人が集まる公共の建物が街はずれに建てられてしまうケースが圧倒的に多い。」「音響のことなどは非常に熱心に研究されているにもかかわらず、建てられる場所については議論がない。」と言い、都市の中での音楽空間のあるべき場所という重要な点に言及している。

 ここで一貫しているのは、建築としてのコンサート・ホールというのは、その立地、音響、造形、活動も含めてあらゆる面から音楽を総合的にデザインする場であるという認識である。この書は、音楽空間のデザインに求められる全体性を理解するための多面的な姿を伝えた貴重なインタヴューと資料から成り立っており、音楽空間にかかわるさまざまな人によって読まれるべき書であろう。

(「住宅建築」2003年8月号)

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「一脚の椅子・その背景 モダンチェアはいかにして生まれたか」

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 椅子の世界は、身近でありながら奥深い世界である。長い時間に渡って人間を支える座と背、床から必要な高さを保つ脚からなる機能的な道具でありながら、同時に彫刻的な自由度を持った美しさも問われる立体造形物である。しかもモダンチェアは、単品の作品ではなく量産を前提とした工業製品である。工業製品でありながら、常に身体とつながっているところに、その奥深い世界が開かれている。

 「一脚の椅子・その背景」と名付けられたこの本では、名作椅子と呼ばれ、長年に渡りロングセラーとなっている北欧や日本の15のモダンチェアについて、デザイナー本人(それがかなわぬ際には、ご家族)にインタビューしながら、一脚の椅子の背景を、それが生まれでた時点まで溯って明らかにしている。著者は、その椅子の調査研究にあたってはいくつかの原則を設けている。その中には、「一脚の椅子」はデザイナー一人ではできるものではないという考えに基づいて、デザイナー本人へのインタビューだけでなく、その椅子のメーカー、工場を訪問し、その設備、工程を知り、関係者の技術的な見解を聞き、資料、図面等も幅広く収集することも含まれている。

 名作椅子は、一般の人たちが使えるような価格で生産ができるという命題を満足させながら、一方で人々を魅了する座り心地、フォルムを持つといった一見相反する要素を兼ね備えている。それらの成立の過程を、丹念な取材によって収集した多面的なヴィジュアル・インフォメーション(椅子単体での写真、デザイナーの自宅などに置かれスペースの中で生きて使われている姿の写真、製造過程やディテールなどが見てとれる写真、図面、スケッチなど)を通して明らかにしている。それら名作椅子に多くの影響を及ぼし、モダンチェアのさきがけとなったシェーカーとトーネットの椅子についても、それぞれ章を設けて言及している。

 著者は、この本に述べられている内容は、「一脚の椅子・その背景」の大海原に漕ぎ出したところの、ほんの第一章という気持ちであるとし、続編のための調査研究を開始することを述べているが、イタリア、アメリカなどの名作椅子についてもその背景を明らかにして頂ければ、さらにモダンチェアの豊かな世界を見ることができるようになると感じた。

(「住宅建築」2003年2月号)

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「あかり 光と灯のかたち - 古代から現代まで」

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 この本は、「失われたあかりを求めて」つくられた本である。失われたあかりは、今やあかりの資料館に出向かなければその姿を見ることができない。また、「陰翳礼讃」をイメージさせる日本の住まいは、たてもの園に出向かなければ見ることができない。それは日本の旧い民家にも似て、確かにかつての日本人が共有していた美しい日本には違いがないけれど、今それらを共有しているとは到底言いがたいと思う。

 現代の最も美しいあかりが、真の故郷を持たないと言ってもよかったイサム・ノグチによって創られたのと同じように、その美しい日本は外側から発見されるものに、だいぶ前からなってしまっている。繊細で今にも消えてしまいそうに揺らいでいるあかりがそうであるように、意識して保とうとしなければそれらは存在しないのである。しかしながら、そのことをかなしむ必要もないと思う。日本人は繊細なあかりを尊ぶというのとは別の方向を明らかに目指して走ってきたのだし、失われたあかりは、今ふたたび外側から発見されるべきものであるからである。

 この本であかりは、火に起源をもつ照明器具-人工の光にとどまらず、自然光をいかに取り入れるかという範囲までも含めてとりあげられている。照明デザイナーの仕事は、照明器具-たとえばシャンデリア-をつくることではなく、いかにその場所に適切な光を与えるかというものである。適切な光を与えるためには、時には照明器具は不必要であり、その存在は感じられなくてもよいものである。この本であかりという観点から光の問題を全体としてとらえようとしている点は、評価してよいと思う。かつて、伊藤ていじの著書「灯火の美」を読んで照明デザイナーをこころざした若者がいた。この「あかり」の本を手にして、失われたあかりへの感性を取りもどすきっかけになってくれればと思う。

(「住宅建築」2000年8月号)

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矢萩喜従郎「平面 空間 身体」

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 矢萩喜従郎は、多面体の人である。グラフィック、サイン、エディトリアルなどのデザインから写真、アート、建築、評論、出版まで幅広い領域において瑞々しい活動を行なっている人である。その活動の軌跡は「PASSAGE/パサージュ(朝日新聞社、1999年)」という作品集によって知ることができる。その作品集のページを一つ一つ開いていくと、その幅広い多彩な活動に目を開かれると同時に、その幅広い活動の背後にある彼の思考のありかたに興味を惹かれずにはいられないだろうと思う。

 この「平面 空間 身体」は、そのような矢萩の思考のありかたを語っている本である。日本から西洋まで古今を問わず絵画、アート、グラフィック、写真、建築、ランドスケープなど広く視覚芸術を中心に、人間と「もの」との関係に思索を巡らせている。良きつくり手にとって一番身近で最大の批評家は、つくり手自身であるし、また自分自身が一番きびしい批評家となり得ないつくり手は良きつくり手になりえない。彼の作品集と、この「平面 空間 身体」は、良きつくり手が同時に良き批評家であることを示している。彼は、そのことを世阿弥を引いて「離見の見」すなわちもう一人の自分を飛ばし、俯瞰した場所から自分を見ることだと述べている。彼の多彩な活動の根が、もう一人の自分を飛ばすことにより、この本の中で明らかにされているということができる。

 それと同時に、この本を読み進むにしたがって日常われわれの行なっている建築の設計あるいはデザインが、実は幅広い領域において捉えることができるということを示しているのも、この本の重要な点である。従ってこの本は、大変にラディカルである。ラディカルという言葉は、もともとは「根差している」という意味であり、その意味でこの本は、広い領域の出来事の根っこ、は実は近いところにあるということを示しているのである。

 矢萩喜従郎は、書を能くする人であるという話を聞いたことがある。書が手による運動の軌跡を描いたものであるということができるように、この本は矢萩の身体による思考の軌跡を鮮やかに描いてみせた本であるということができる。

(「住宅建築」2001年2月号)

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批評と夢のあいだ 「植田実の編集現場」

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 1968年5月に雑誌『都市住宅』は創刊された。この本は、その初代編集長として活躍した植田実の編集の現場をさぐる書である。ちょっと不思議なしかけの本である。この本を左から開くと、建築学会博物館で開かれた「『都市住宅』再読・植田実の編集現場」と名づけられた展覧会の記録が、横書きで多くの写真と共にヴィジュアルに登場する。また一方この本を右から開くと、花田佳明による植田実の評伝を縦書きで読むことができる。その縦書き本と横書き本は、本の途中の黄色い謝辞のページで出会うしかけになっている。ヴィジュアル情報とテキストの合体するさまは、まさに異なった二つの世界を自在に行き来する植田実を表わしていると言える。

 『都市住宅』は、都市に建つ住宅を扱うだけの雑誌ではなかった。都市にかかわるもの、住宅にかかわるものはすべて対象となり、それぞれの世界の極北を探求した。都市と住宅は微温的に同居するのではなく、それぞれが最大の強度を持って対峙した。植田実はその引き裂かれたと言ってもよい二つの世界を横断し、その離隔距離を測り、編集して見せたのであった。建築や都市を編集することが、同時に批評となっていたのである。杉浦康平による『都市住宅』のタイトル・ロゴを見ると明朝体の「都市」と、ゴチック体の「住宅」が縦積みになっている。それは、植田が切り取って見せようとした編集のコンセプトを見事に視覚化している。

 花田佳明によるテキストは、そのような植田がどこからやって来たのかを淡々と説きあかしている。それは、ここ数年花田らにより行なわれてきた建築批評原論としての建築ジャーナリズム論の一つの結実と言える。印象論でなく、建築を批評し、伝えるということに対する研究と思考の成果である。住宅が集合し、都市という一つの世界をかたちづくるように、植田実による100冊の『都市住宅』や、100冊の住まい学大系は、1冊1冊が住宅作品のように個別の作品でありながら、それらが集合すると、塚本由晴らによる展覧会で示されたように、独自の全体像をかたちづくっている。同時代を共有した者でなく、花田や塚本など遅れてきた世代が、植田実の世界を距離感を持ちつつ読みとろうとしている。それ故、この本は1960年代から70年代へかけて『都市住宅』の熱い時代を共有した植田実の同時代人によるノスタルジアの書物ではなく、これから建築を考え、つくっていく若者の糧となる書なのである。

(「住宅建築」2005年8月号)

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建築創造のプロセスへ 「内藤廣対談集 複眼思考の建築論」

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 建築家の仕事は、図面に向き合い、模型と向き合い、材料と向き合い、モノと格闘するものであると同時に、「多くの人の協力を得、加わる人の士気を高め、建設と言う複雑極まりないプロセスの質を高めていかねばならない」ものでもある。建築をつくる仕事は、さまざまなモノをインテグレーションしていくと同時に、それをつくりあげていく人たちをインテグレーションしていかなければならない。一人では「建築」は実現していかない。そんな「建築」のプロセスの中に登場するさまざまな職種の専門家たちがいる。構造家、設備設計家、照明デザイナー、インテリアデザイナー、音響家、劇場コンサルタント、ランドスケープアーキテクトなど、など。そんな建築に携わるさまざまな分野の当代の第一人者たちと内藤廣との対談の記録が、この本である。この本で登場する専門家の中には、まさにその職種をつくりだした人たちもいる。彼らは建築をつくりつつ、その仕事の価値をも、つくりだした。

 かつて構造家坪井善勝と、建築家丹下健三の議論をそばで聞いていた者の証言によると、どちらが建築家で、どちらが構造家であるか判然としなかったと言う。優れた専門家たちは、その専門分野の深い能力と共に、並はずれた感性や直観力をもって、創造のプロセスを建築家と共にする。対話を重ねる中で、突如新しいアイディアが湧いたりする。そんな場合は、どこからどこまでが建築家のアイディアで、どこからどこまでが、その専門家のアイディアかなどという境界線など引くことはできない。それは、まさにコラボレーションがもたらす果実である。デザインに対する感性を持つものが、創造の場に参加することができる。なぜそのデザインが求められるのかを直感することができなければ、いくら専門知識を持っていても協働作業はできない。専門性を持ちながら、時にその専門の前提を疑うようなやわらかい発想ができなければ、対話は成立しない。一方、建築家も自分一人では発想もされないことが、専門家との対話の中で触発され、時にきつい刺激を受け、アイディアとして結実する。

 内藤廣は、この一連の対話を総括して、「建築という価値の創造に加わるすべての人が建築家」であると述べる。その論にしたがえば、この本に登場する人たちは、すべて「建築家」であり、その対話には、新鮮な驚きと発見が満ち溢れている。内藤廣は、今の若者たちは狭義の『建築家』になりたがりすぎると警告し、「『建築家』になるのではなく、建築をつくるプロセスに参加できるようになりたい」と思うようにと説く。建築をつくりあげていく複雑なプロセスへの参画のしかたは一つではない。この本は、これほどまでに人を夢中にさせる建築の深さと愉しさに満ちた本である。

(「住宅建築」2008年2月号)

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