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Wednesday June 14th, 2017

「構造デザインとは何か  構造を理解しないアーキテクトとアートを理解しないエンジニア」

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 「構造デザインにおけるアート」というのが、アラン・ホルゲイトによる原著の題名である。構造デザインの中にアートを見出せるかどうかは、真の意味で構造デザインができるか、単なる構造計算で終わってしまうかの差であろう。本書は、建築の歴史や美学からはじまり、きわめて実務的な設計の組織、資金計画やクライアントの問題まで幅広い内容を横断しながら、構造デザインという一つの切り口から、建物をつくりあげるという人間の営為を考察している。21の章からなる本書は、一つ一つの章がそれぞれ大部の著となるだけの内容をかかえながら、あえてそれを一つのテーマでもって切ってみせたところにそのユニークな点がある。

 本書において挙げられているシドニーオペラハウスが、すぐれたアーキテクトであるウッツォンと、すぐれたエンジニアであるアラップの協働によって生み出されたように、あらゆるすぐれた建物はアーキテクトとエンジニアの協働によって生み出される。アーキテクトとエンジニアの間は常に緊張関係をはらんだ実践の場である。本書のシドニーの例を見ても分かるように、あの印象的なシルエットをかたちづくる薄肉シェルも構造デザインをすすめる過程の中で、リブアーチ案に大変な緊張関係の中で変容していく。構造デザインの究極の姿の一つとして、そのデザイン的側面に注目するか、アーキテクトとエンジニアの間の葛藤の場として、その人間的側面に注目するかによってシドニーオペラハウスの評価は180度異なるが、その両方の側面をもすべて包含しているのが実際の設計実務の現場と言える。

 日本の生んだ偉大な構造設計家木村俊彦は、「大学などで専門的に教育を受けるのは構造計算のごく初歩と設計製図の初歩に限られていると言ってもよい。大部分の実務はすべて、そして計算や設計の職能自体も、大学卒業後、設計事務所などの実際の設計組織に入り再教育され、あるいは独習していくものである。」と述べている(「木村俊彦の設計理念」鹿島出版会、2000年)。木村俊彦も槇文彦、磯崎新をはじめ多くの建築家と協働し、常に新たな構想の下に多様な建築を、実践の場の中で実現してきた。

 この書は、主として構造系の学生を念頭においたものであるが、学生に限らず広く設計実務の実践の中に身を投じた者が独習し、そしてその全体像を知るための道しるべとなるであろう。

(「住宅建築」2001年8月号)

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「Perfect Collection 知られざるPC建築」

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 PC建築は、Precast Concrete(プレキャストコンクリート)、 Prestressed Concrete(プレストレストコンクリート)の双方の技術の上に成り立つものであり、そのPC建築の Perfect Collectionを目指してつくられたのが、この本である。プレキャストコンクリートは、鉄筋コンクリートの製品を、あらかじめ(プレ)前もって工場でつくって現場で組み立てる。環境条件がある程度一定で設備の整った工場でつくるので、密実で強度の高いコンクリートができる。またプレストレストコンクリートは、コンクリートにあらかじめ(プレ)前もって、ストレス(圧縮力)を加えておいて、引っ張りの力が働いても既にある圧縮と相殺し、コンクリート部材の圧縮場を維持しようとする。圧縮には強いが、引張りには極端に弱いコンクリートの材料特性をカバーする技術である。それらコンクリートの特性をさらに引き出すPC技術を用いることにより、どのように豊かな建築の世界ができるのかを、多くの写真、図面、解説によって明らかにしたのが本書である。

 この本をながめていると、それぞれ個別に名建築として知っていたものが、実はPC建築の技術によって可能になったことを知る。ヨルン・ウッツオンによるシドニーペラハウス、ルイス・カーンよるペンシルヴァニア大学リチャーズ゙医学研究所、菊竹清訓による出雲大社庁の舎などである。各建築には、竣工した姿の写真だけでなく、模型写真、工事写真、構造の考え方を最も的確に表わす図面が添えられ、解説が付け加えられている。それを読むと、例えばリチャーズ医学研究所においては、敷地が極めて小さく、大型重機を用いたり、資材を置くスペースがなく、そのような状況で施工できる工法を考えなければならなかったことがわかる。したがって工場で生産された部材を現場まで運搬し、モビールクレーンによって組み立て、ポストテンションで一体化する工法が採用されたのである。

 敷地条件、建築形態などそれぞれ固有の条件下で豊かな着想のもとに構想されたアイディアが、PC建築の技術と出会い、PCによって現実の建築となっていく過程、PCだからこそ成立する建築の意味,表現,機能を、豊かなPerfect Collectionの中に見ることができる。本書によってPC建築の魅力を知ったものは、それをさらに現実のものとしていく手立て―PC建築を進めていく設計プロセス、PC建築のディテールなど―を本書で触れることができる。

(「住宅建築」2005年2月号)

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「リファイン建築へ-建たない時代の建築再利用術」

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 九州の大分をベースに活動を繰り広げている建築家青木茂が唱える「リファイン建築」とは、既存建物に対して必要な増築を加えつつ建物全体を再編して、旧い建物の再生を図るものである。その再生の方法は、建物の内外装を一旦取り払い構造躯体の状況まで戻し、耐震診断に基づいた補強を施し、内外装や設備を一新するものである。したがって、新旧一体となり内部空間を大胆に変容した新しい建物は一見新築のように見える。しかし一方で旧い建物の構造躯体を利用しているため、完全な建て替えに比べると廃材の量を大幅に少なくすることが可能な環境に配慮した方法であり、また躯体工事がほとんどなく工期も短くできる分、コストは建て替えの新築に比べて半分近くまですることができると言う。

 「リファイン建築」のしくみは、既存建物の柱割り、階高、縦動線の位置等は原則そのままであるので、その枠組の中に入る用途と荷重設定であるならば、かなり柔軟な対応を考えることができる。廃校となった小学校体育館を保育園とする計画案からもわかるように、大空間を小空間の集合したものにすることも可能である。逆に小空間の集合をまとめて大空間にすることはむつかしいと考えられる。

 青木茂が手がけた「リファイン建築」の生き生きした姿は、特にその公共建築に見ることができる。築25年経た老人福祉センターによる八女市多世代交流館、築30年経た母子センターによる野津原町多世代交流プラザ、築35年経て改築した緒方町役場庁舎、林業研修宿泊施設による宇目町役場庁舎などがそうである。それら「リファイン建築」の基となった旧い建物は歴史的に重要な建物というよりも、何の変哲もない老朽化したRCの建物であり、今までの時代ならば建て替えされていたようなものである。それらをきびしいコスト管理をしつつ「リファイン」して一新している。本人の言葉によれば「B級の建物をA級の建築に」する仕事である。
別府のホテルや旧長崎水族館のプロジェクトのように人々の記憶に残る建物として建築的に遺すべきものがあれば、それらは積極的に保存していこうという柔軟な立場であり、「リファイン」してすべて一新すればよいと考えているわけではない。時間という容れものの中で使われてきた建物を、単に壊すのではなく再生させるという観点で提案を続けてきた地方の建築家の軌跡をたどることができる。

(「住宅建築」2002年2月号)

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復元の諸相から見えてくるもの 「復元思想の社会史」

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 復元とは、失われて消えてしまったものを旧に復することと言われる。この書で論じられているのは、建築・都市・庭園・橋梁など広く風景を形づくっているものに見いだせる復元のありようであり、「うつし」と言われる祖型のコピーや復元の対極である「破却」についても俎上に上げられている。

 この本を一読して驚くのは、今まで当たり前と思って見ていた風景や建築のなかには、ある時代、ある考えのもとに復元しようという強い意思で造られたものがあるということである。例えば平安神宮をあげてみよう。平安神宮の建築がそんなに旧いものではなく、神宮の建築としては比較的新しい明治期のものであることは知っていたが、それは明治28年の平安遷都千百年紀年祭のために、京都岡崎の内国勧業博覧会の会場の隣りの敷地に建てられた平安京大極殿の建物を転用したものだという。あるいは、辰野金吾の東京駅舎から皇居に向かってまっすぐに延びる大通り(行幸道路)の視線の先に見える印象的な富士見櫓は、関東大震災で倒壊・大破した後の再建つまり復元建築であるという。震災後も、皇居にとっては、その旧江戸城の、いわばランドマークが必要とされたのであった。この本は、そのような知的刺戟をそそる事例が、広範囲に集められ、何をもとにいかなる理由やきっかけに基づいて復元されてきたかが論じられている。それらの事例は、集めはじめた当初の予想を超えて、数多く集まったという。

 建築は、用途が変わってしまったり、老朽化したために改変、改造を受け、オリジナルの姿から変わってしまうことも、ままありうる。そのような状況もある中で、一度姿を消したり、変わってしまったものを、オリジナルの姿に戻そうという作業は、新築の建築に変わらぬエネルギーと、その原動力となる思想が必要なのであろう。電気楽器が広く行き渡っている現代という時代における、オリジナル古楽器による演奏が、すぐれて現代の思想に裏づけられた現代の産物であるのと同じように、ある時代の思想、ある時代の社会の要請によって復元されたものは、やはりすぐれてその時代が産み出したものなのである。つい時間を経て当たり前と思っている「復元された風景」にひそむ、その思想の諸相を鮮やかに切り取って見せた書といえよう。

(「住宅建築」2006年9月号)

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「建築の終わり-70年代に建築を始めた3人の建築談義」

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 これは、岸和郎、北山恒、内藤廣の3人の建築家による連続トーク・セッションの記録である。3人が交替にナビゲーターとなり、それぞれの建築の原点、建築を学び始めた頃の話に始まり、ニューヨーク、ワールド・トレード・センターの消滅とスペイン、ビルバオのグッゲンハイム美術館の誕生を巡りつつ、70年代以降の建築や社会を振り返り、建築の今後の可能性について論じている。

 3人の軌跡は、この時点では表面上は重ならない。しかし、それぞれ東京、横浜、京都にある大学で学び、建築について考えはじめていた。70年代は、磯崎新の時代であった。当時、「美術手帖」誌には、磯崎新による「建築の解体」が連載されていて、北山は強い影響を受けたと言う。岸は連載されていた「建築の解体」をコピーし製本して読んでいたと言う。一方内藤は、多くの学生が磯崎の「解体」に熱を上げていた時、「解体」という言葉にはあまり反応しなかったと言う。そして24歳の時、内藤は「新建築」誌の月評で磯崎の群馬県立近代美術館に対して、「全くいやなものを見てしまった。」「もしこれが建築ならば僕は建築なんかつくりたいとも思わない。」と書いた。当時直接面識のなかった3人は、別々のところで同じ事象に向かって思考をしていた。

 岸は、一方でいかがわしさも感じつつ、グッゲンハイム美術館によってビルバオには「建築」という概念が誕生したと言う。内藤はビルバオに行って、まがまがしいシンボルとして建ち続ける姿に「建築の終わり」を感じると言う。北山はビルバオは建築の理屈を抜きにする倫理のない建築だと言う。3人の意見は異なっている。しかし、建築に「建築」という概念を見ようという姿勢に、共通点がある。それは、まさに70年代が育んだ姿勢であり、建築を志す若者に向かって1950年生まれの「建築家」が投げかけたメッセージである。

(「住宅建築」2003年8月号)

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