「都市の遺産としての文化施設-佐藤功一と前川國男の建築-」
1.はじめに
日比谷公会堂と東京文化会館は、それぞれクラシック音楽の殿堂として、一時代を画した。設計者は、佐藤功一と前川國男である。佐藤功一には、日比谷公会堂に対して早稲田大学大隈講堂、前川國男には東京文化会館に対して京都会館という、ほぼ同時期に竣工した作品がある。この四つの作品は、都市の公園や大学キャンパスの中にあって、それぞれが都市のかけがいのない遺産となっている。このうち大隈講堂と東京文化会館は、近年大規模な改修が行なわれた。日比谷公会堂と京都会館については、大規模な改修は今後の課題であると聞く。ここでは、その四つの作品について、主に建築と都市との関係について考察し、さらに大規模改修された二つの作品については、その大規模改修の内容を概観し、最後に今後文化施設が使われ続けるための用件について考察したい。
今回の資料集にもあるように、ここ数年の間に日本においても、いくつかの歴史あるホール、講堂に大きな改修が施されている。大都市だけでなく地方においても、本資料集に挙げた奈良県文化会館(1968年開館。1995年大改修。)の他にも、舞台部分を全面改修した熊本市民会館(九州で3番目に歴史の長い公共ホールと言われる。1968年開館。2000年大改修。)など、1960年代に建てられた公共ホールは、現在リニューアル時期を迎えている。ここでは、日本における最も代表的な改修事例である二つの作品が取りあげるが、それらすべてに共通する問題、課題が多くあることを指摘しておきたい。
2.都市への視線-大隈講堂と日比谷公会堂
大隈講堂は、早稲田大学のキャンパス、日比谷公会堂は、日比谷公園の一角に建つ。共に「塔」が印象的な建築である。しかしその「塔」の存在のありかたは、ずいぶんと異なる。
大隈講堂では、「塔」を建物の中央からはずし、左右対称によらないファサードとしている。建物自体は、大隈銅像の建つ早稲田キャンパスのメインの広場の軸線に対しては斜めに構え、ピクチャレスクな配置を見せている。「塔」は景観上メインの広場に対して、アイストップにはなるが、正面性を強調することは避け、建物自体もゴシック様式を基調としながら、大隈庭園側に対してはロマネスク風の外廊を備えるなど、周囲の状況に対してゆるやかに対応したものとなっている。
日比谷公会堂では、「塔」は建物中央に配置し、左右対称のファサードとして、公園広場の軸線を正面に受け止めるかたちに配置されている。建築の内部も左右対称に設計され、軸線の論理が建物内部にいきわたる古典的な配置を見せている。一方街路側に対しては、街路のアイストップとなっているルネサンス様式で水平性の強い建築である日本勧業銀行(渡辺節設計。今は建替えられている。)を意識して、日比谷公会堂は、それとは対照的なゴシック様式の垂直性の勝った建築をデザインとして採用したと言われている。
佐藤功一は、都市美について深く関心を寄せた。(英国のレーモンド・アンウィンの都市論に大きい影響を受けたと言われる。)「建築-都市」観の特質について、以下の二点を挙げることができるという。一番目は、「都市の美観を俯瞰的な総合美でなく、路上を歩く歩行者からの視点による美の「連景」とした捉えたこと。」であり、二番目は、「様式・形態・高さなどの統一よりも、むしろ異質な形態の併存がもたらす動的な都市美に着目したこと」である。大隈講堂と日比谷公会堂は、まさに佐藤功一が彼の「建築-都市」観を、それぞれの都市的コンテクストを読み込みながら、実践した建築であったといえる。
一方で大隈講堂と日比谷公会堂は、佐藤功一のもと佐藤武夫が科学的な音響学によるアプローチによって、ホールの音響性能を音響実験も行いながら追及した。音響学者の石井聖光は、「戦前の建築物で特に音響的に注目すべきものには、大隈講堂、日比谷公会堂がある。」と指摘したように、音響学を実践した建築物のさきがけといえる。
3.都市的な公共空間-前川國男
京都会館は岡崎公園の一角、東京文化会館は上野公園の一角に建つ。共に、「大きな庇」が印象的な建築である。しかしその「大きな庇」の存在のありかたは、ずいぶんと異なる。
京都会館は、隣接する公会堂を取り込みながら、建物をL字型に配置して、東山へと眺望の開ける中庭空間を設けた。二条通側は、建物をセットバックさせ広い並木道である。その街路空間は、ピロティを介して中庭空間へとつながっている。コンサートホールホワイエは、そのピロティから南北方向に視線が抜けるようになっている。都市的な公共空間は、街路空間から中庭空間へ引き込まれ、さらに内部のホールのホワイエへと連続をしている。「大きな庇」は、バルコニーや手すりの水平線と寄り添いながら、その水平性を強調し、伸びやかに展開している。
東京文化会館の「大きな庇」は、正面に向き合う師匠ル・コルビュジェの国立西洋美術館と軒高をそろえ、対峙している。人々は、上野駅公園口の角に設けられた共通ロビーから大小ホールのホワイエに導かれていく。都市的な公共空間は、内部に展開し、共通ロビー、大小ホールホワイエは、「大きな庇」の下の一つの屋根の下で統合されている。一辺が約80メートルの正方形で、10.8メートルスパンの均等な柱に支えられた一つの屋根は、内部において都市的な公共空間を作り出し、上野公園の緑をホワイエに取り込んだ。
前川國男は、設計当時大きな屋根は、「人を招き寄せる、インヴァイティングな意味」を持っていると考えて、設計をすすめていた。大屋根の下は、スチールサッシュのガラススクリーンが入り、透過性を獲得していた。人々は、招き入れられ、公園の緑や街路と一体の公共空間を内部につくりだしていた。都市的な公共空間は、京都の中庭空間や東京文化の内部のホワイエに展開されたといえる。
4.大規模改修-大隈講堂の場合、東京文化会館の場合
大隈講堂大規模改修においては、建築が生き続けるためすべきことは3つに分類された。1つ目は物理的な建築性能を健全にすること(耐震性能、外壁タイル剥離・落下への対策、防災対策、雨漏り対策等)である。2つ目は機能向上であり、ホールなどを含め利用者に今日的サービスができるようにすること(冷暖房、舞台設備、座席の幅・前後間隔、バリアフリー)である。3つ目は記憶継承であり、オリジナルの再生など歴史と記憶にある建築の本質を変えないことである。これら三つの要素は、相互に矛盾する選択を迫られる場合が多いが、形を残せば良いと安易に解決を図るのではなく、これからも利用することを重視して設計が行なわれた。そのような相克の中、座席数はオリジナルの1436席から1121席に減り、一方で客席上部の楕円形の採光窓は、そのままにされた。2007年大改修を終えた大隈講堂は、重要文化財としての指定を受けた。
東京文化会館大規模改修においては、2つの大方針が立てられた。1つ目は舞台・楽屋等の劇場機能はリニューアルすることであり、2つ目は外観・客席・ホワイエの全体意匠は60年代の定着(原型の復旧)を図り、評価の高い音響は維持するということである。サントリーホール、東京芸術劇場、オーチャードホール、新国立劇場などの競合施設が増えたこともあり、大規模改修時は、主用途を何にするかがあらためて議論された。その結果、音楽ホールとオペラハウスの二つの劇場機能が主用途として明確化された。1997年大改修前の最後の「東京文化会館利用者懇談会」で、当時の三善晃館長は、「これまでも東京文化会館は、世界的にすぐれた演奏家を育ててきた。これからも、文化の当事者であり発信者であり続けるためには、どう変わっていけばいいのか、まずは皆さんの意見を謙虚にお聞きしたい。そのために過去の制度や条例を盾にしない。」と挨拶したという。(*1)それまで舞台吊物との取り合いに問題のあった音響反射板の格納方法は改修時の大きな課題であったが、最終的には舞台下に格納することにして、オペラ、バレー等の公演時に舞台演出や照明の可能性を大きく広げる設計となった。
大隈講堂、東京文化会館両者の大規模改修に共通するのは、経年変化、時代の要請に応えて取り替え、またプラスしていかないといけない「変わる部分」と、改変されたものの復元も含めてオリジナルの良さを残す「変わらない部分」を、どう切り分けていくかと言う課題に正面から取り込んでいることである。その課題に取り組まない限りは、保存再生の道は拓かれていかない。
4.文化施設が使われ続けるための用件
大隈講堂、日比谷公会堂、京都会館、東京文化会館と四つの建築を見てきたときに、都市の遺産としての文化施設が、使われ続けるための用件として、大きく三点に分けて考えたい。
①都市の建築として
都市の建築として、すぐれた場所に立地し、その立地に対しての読み込みがされた建築が実現されていること。
四つの建築すべてが、もともとは公園と街路が接するような位置だったり、キャンパスの重要なポイントだったり、都市の中でもポテンシャルのある重要な位置に敷地が設定されている。加えて、都市や周囲の環境に対して、きわめて周到な配慮にみちた建築である。内部空間だけでなく、都市空間、外部空間もデザインされている。
②劇場建築・ホール建築として
劇場建築・ホール建築として、ホール空間、ホワイエ空間が一定の質が確保されていること。(ホール空間については、ケースによっては主用途を見直し、デザインを一新するケースもありうるであろう。例えばベルリンのシャウシュピールハウスや東北大学川内萩ホールなど)
四つの建築すべてにおいて、それぞれ特徴あるホール空間、ホワイエ空間がつくられている。(例えば、大隈講堂客席上部の楕円形の採光窓、東京文化会館大ホールの六角形平面の客席など)
③人々の記憶に残る舞台として
劇場建築・ホール建築として、その舞台で、人々の記憶に残るパフォーマンスが行なわれてきたこと。
四つの建築すべてで、人々の記憶に残るパフォーマンスが行なわれてきた。自分たちの体験してきた歴史を忘れてはならないし、歴史は、その場所や建物によって記憶される。
上記に挙げた建築以外でも、例えば群馬音楽センターの場合は、①都市の建築として、すぐれた場所に立地し(高崎市役所の前、高崎城址)、②レーモンドの優れた近代建築(RC折版のユニークな構造)が建ち、③何にもまして、音楽都市として群馬交響楽団が、地域に根ざして活動をしている。
また日生劇場の場合は、①都市の建築として、すぐれた場所に立地し(東京宝塚劇場、帝国劇場、日比谷公会堂など劇場街として日本でも有数な日比谷という位置)、②村野藤吾の最高傑作(アコヤ貝を天井に使った幻想的な洞窟のようなホール空間。施工技術的にも、二度とつくりだせない種類のもの。)③こけら落としのベルリン・ドイツ・オペラ公演をはじめとした人々の記憶に残る数々の公演が行なわれてきた。
このように考えた時、使われ続けていくべき都市の遺産としての文化施設は、日本各地には多くあり、それらは一つ一つ、その価値-立地、建築、使われ方-が検証されていかなければならないのではと考える。
(*1)「まちなみ・建築フォーラム」1998年2月号、p.70
註)この小論は、下記論文等を参考にした。
・佐藤功一については、米山勇氏の論文「建築家・佐藤功一と都市への視線、あるいは近代の視線」(東京都江戸東京博物館研究報告第2号)に、多くを負っている。
・京都会館、東京文化会館、日生劇場については、本資料集の各論文。
・群馬音楽センターについては、本資料集の論文および下記高崎市役所サイト。
http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/kouhou/oc/oc-iken.htm