プレチニックのリュブリアナと、プレチニックハウス
スロベニアの建築家プレチニック
スロベニアは、西はイタリア、北はオーストリア、南や南東はクロアチア、北東はハンガリーと、それぞれ国境を接している。かつてはオーストリア・ハンガリー帝国の一部であったが、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する一つの共和国となり、1991年独立を果たした。首都はリュブリアナである。アルプス山脈の南東側の裾野と、地中海のアドリア海にはさまれたスラブ地方の都市である。リュブリアナは距離で言うと、イタリアのトリエステから約100km、オーストリアのグラーツから約200km、クロアチアの首都ザグレブから約140kmであり、文化や交易の交差路にあると言える。
ヨージェ・プレチニックは、1872年(オーストリア・ハンガリー帝国の一部であった時代の)スロベニアのリュブリアナに生まれた。1894年の1年間、ウィーンのオットー・ワグナーのアトリエで修業し、その後の3年間は芸術アカデミーのワグナーの教室に在籍した。
19世紀後半の都市ウィーン
1848年、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンでは、自主憲法制定を求める革命が起こり、その後市街地を囲む市壁を取り壊し、新しい都市計画が行われることになった。その結果うまれたのがリンクシュトラーセであり、その街路に沿って建てられた、多くの公共建築であった。
それらは国会議事堂、市庁舎、大学などであったが、それぞれの建築内容にふさわしい様式が付与された。国会議事堂はギリシア・ローマ様式、市庁舎はオランダ・ゴシック様式、大学はイタリア・ルネサンス様式であった。そのようなリヴァイヴァリズムに拠って建てられる建築群に対して異を唱え、近代の実践的・機能的な要求に基づく自由な表現の必要を説いたのが、他ならぬオットー・ワグナーであった。
オットー・ワグナーの仕事
1892年の合併編入で、ウィーンの市域は3倍以上に拡大し、人口は50万人を越えた。拡がりいく都市に対して、一つの行政組織のもとに総合的な街づくりが求められる時代であり、ウィーンのまちにとっては、数十年来懸案となっていた市電建設、ドナウ運河及びウィーン川整備事業が、ウィーン交通輸送施設委員会の主導のもと、行われることになった。その委員会には、国、州、市の代表者に、建築顧問としてオットー・ワグナーが加わっていた。ワグナーの建築作品集をひもとくと、駅舎や橋、水門や監視所などの、多くの美しいドローイングや写真を見ることができるが、それらは、そのように改造されていった都市ウィーンの産物であった。
ヨージェ・プレチニックが、ワグナーのアトリエにいたのは、まさにその都市改造が行われていた時であった。いわゆる建築の枠組みのなかにとどまることなく、都市をかたちづくっていく環境要素すべてがデザインする対象であり、建築であれ、橋であれ、護岸であれ、それらはすべてデザインされなければならなかった。
独立後のプレチニック
ワグナーのアトリエで、多くの仕事をてがけたプレチニックは1900年に独立、その後10年ほどはウィーンで活動し、ウィーンで、ツァッヘルハウスなどを設計したが、その後は活動場所をプラハに移し、工芸学校で教鞭をとりつつ、プラハ城の改修設計に携わった。1921年リュブリアナ大学建築学科の教授となり、プレチニックは故郷リュブリアナに戻ってきた。
プレチニックのリュブリアナ
プレチニックは、1920年代リュブリアナの市街地の都市構造にとって重要な位置を占める多くの仕事を行った。
写真1:ズヴェズダ広場
公園や広場(ズヴェズダ広場:1927~32年、写真1)の建設に携わりながら、都市の重要なポイントにはオベリスク、階段などをつくっていった。また、リュブリャニカ川の川底を掘り下げる計画に同調して、川岸を整備し、セビリアスキー橋(1930~31年)や三本橋(1929~30年、写真2)、川岸に立つ市場(1939~40年)などの建設に関与した。
写真2:三本橋
地図を見てもわかるように、三本橋の建つ位置(図1の赤丸)は、リュブリアナ城(図1の左上あたり)、旧市街、新市街をつなぐ結節点であり、都市の重要なポイントとなる位置にデザインされた橋である。既存の老朽化した橋の両側に、水際まで降りていくことができる橋を足し、放射状に組み合わせた卓越したデザインである。放射状のプロットは、都市構造、リュブリャニカ川の曲り角になる流れの線形を見事に読み取ったものであり、まちの名所として、リュブリアナを訪れた観光客や、市民の多くが立ち寄る象徴的な場所となっている。
図1:プレチニックのリュブリアナ地図
都市をかたちづくっていく環境要素を、美しくデザインしていくという思想は、まさにウィーン時代に、ワグナーのアトリエで展開されていたことを、故郷のまちで実践していった結果であると言うことができる。
建築としても、フィルハーモニーのファサードを改装し(1937年)、国立大学図書館(1936~41年、写真3)のような代表作も設計した。国立大学図書館は、近代建築運動のなかでつくられつつあったモダニズムの建築とは一線を画した、個性的な表現のなかで重厚な建築をつくりあげている。足元の街路ヴェゴナ通りは、プロムナード(1929~39年)として、詩人グレゴチッチの記念碑(1937年)などと共にデザインされている。上記に記した建築や都市デザインは、すべて図1の地図内に位置するものである。
写真3:国立大学図書館
このように、プレチニックは、建築から都市デザインまでトータルな視点のもとに、都市リュブリアナをデザインし、リュブリアナは今や「プレチニックのリュブリアナ」と呼ばれるようになった。
プレチニック・ハウス
1921年故郷リュブリアナに戻ってきたプレチニックは、リュブリアナ市内に、平屋の小さな住宅を手に入れ、そこをすみかとした。(写真4)
写真4:プレチニックハウス外観
1923年から25年にかけて、自邸の拡張工事をスタートして、西側に円筒形プランの増築を行った(写真5)。1929年には隣家を手に入れ、円筒形増築の南側にウィンターガーデン、北側にエントランスホール(写真6)を増築した。それらのスペースには、プレチニックが収集した、さまざまな品が飾られていった。古典建築から発想を受けた、様々な建築的要素を自宅において実験し、それから後に他の建築の仕事に応用していった。シリンダー部分には、彼自身の書斎・寝室があった。書斎ではスケッチをし、思索にふける日々であった。(写真7)
写真5:円筒形プランの増築外観
写真6:エントランスホール内観
写真7:プレチニックの書斎
1957年プレチニックの死後、彼の甥が移り住みプレチニックの膨大な作品を整理し、その後所有はリュブリアナ市に移り、1972年市によってリュブリアナ建築ミュージアムが設立され、1974年には自邸はミュージアムとして公開された。2010年に館の運営はリュブリアナミュージアムに移管され、2013年から2015年にかけて、根本的なリノベーションが行われた。
現在のプレチニック・ハウス
現在は、「プレチニックのリュブリアナをつくりだした家」プレチニックハウスとして保存再生し、公開されている。内部は、リュブリアナに点在する、プレチニックの作品を入れ込んだ模型や、多くのドローイング、写真などが展示された、いわゆるミュージアムスペース(写真8)と、彼自身が生前住んでいた様子を彷彿とさせる自邸再現のスペースとから成り立っている。
写真8:ミュージアムスペースの展示
(リュブリアナの都市模型上に、プレチニックの作品)
ミュージアムスペースは、展示空間、ミュージアムショップ、小さなレクチャーホール、研究スペースから成り立っている。一方、自宅再現スペースは、外観、インテリア共に、プレチニックのデザインが貫かれたスペースであり、そこには、彼自身が使い込んだ製図道具、筆記用具、書籍、家具などが、生前このように使っていただろうという位置に注意深く置かれており、あたかも、ついさっきまで本人がそこにいたのではと思わせるようなしつらえとなっている。
前述したように、プレチニックは、平屋の小さな既存住宅を手に入れ、そこに1923年から25年にかけて、西側に円筒形プランの増築、1929年には既存隣家を手に入れ、南側にウィンターガーデン、北側にエントランスホールを増築した。根本的なリノベーションを行うに当たり、それらのスペースは、その重要度が建築家の関与の度合いや残り具合により評価された。プレチニック自身が内観外観共にデザインをした円筒形プランのエリア、ウィンターガーデン、エントランスホールなどのエリアが最も重要度の高いExceptional significanceとされ、最大限可能な限り保存されるべきスペースとされる一方、当初の平屋部分は普通の重要度Average significance、後の入手の隣家はさほど重要ではないMinor significanceのスペースとされている。前者は、家具調度品を含め自邸再現のスペースとして、最大限保存が行われている。後者はミュージアムスペースとして、重要な建築的要素(開口位置や、天井のヴォールト)は残しながら、その機能にあうように現代的な建築のヴォキャブラリーも取り入れて、注意深くデザインされている。(写真9)
都市「まるごとミュージアム」と自邸「建築ミュージアム」
『リュブリアナはプレチニックによる創造物のミュージアムであり、彼の自邸はプレチニックの創造のミュージアムである。』と言われている。(参考文献1) p.11)リュブリアナのまちには、建築、広場、公園、モニュメント、橋など、プレチニックによる多くの創造物があり、地図でも分かるように、都市それ自体が一つの「まるごとミュージアム」になっていて散策し巡ることができる。その一端にある彼の自邸は、それら創造物の一つであると同時に、その創造物をかつて生み出した場所であり、現在はその創造の根源とプロセスを知ることができる「建築ミュージアム」になっている。まちに点在し、いきいきと使われる建築や都市デザインが、「まるごとミュージアム」となる一方で、そのうちの一つの建築が、それらの成り立ちを知ることができる「建築ミュージアム」となり、だれでもがアクセスできる学習と交流と研究の場所となっている。個性的な点の集合による面状のひろがりは、その成り立ちや歴史を俯瞰するポイントも含まれており、きわめてユニークなミュージアム都市となっていると言える。
図2:プレチニックハウス平面図
(右側に街路、左側に庭園。重要度が色分けされている。)
写真9:プレチニックハウス入口(Average significance)
(2016年9月 日本建築学会大会 研究協議会「居住文化とミュージアム-ネットワークでつなぐ新しい博物館のかたち 建築計画編-」資料集に寄稿)
参考文献
1) Hiša Plečnik House (Ljubljana, 2015)
2) Jože Plečnik (Yale University Press, 1997)
3) 「ヨージェ・プレチニック」SD1987年11月号
4) 「ヨジェ・プレチニック-ウィーン、プラハそしてリュブリアナ」A+U2010年12月号
5) 「建築の中の都市の系譜:ウィーン」SD1982年9月号
6) プレチニックハウスのウェブサイト
http://www.mgml.si/en/plecnik-house-503/
図1出典:参考文献3) p.48(赤丸は筆者による)、図2出典:参考文献1) p.77、写真は、すべて筆者による撮影。