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「「劇場・ホール」と「美術館」」

 「劇場・ホール」で催されるものは、音楽、演劇、舞踊などの舞台芸術/パフォーミング・アーツである。また「美術館」で催されるものは、絵画、彫刻などの平面、立体作品の視覚芸術/ヴィジュアル・アーツである。共に「芸術」アーツで括られるものではあるが、その差異は小さくない。何が違い、どこが似通っているか?ここでは、芸術をささえる空間とそこで行われるものについて考えてみたい。

 「劇場・ホール」で行われるものは、舞台上のパフォーマンスに対して、多人数の人々が座りながら、見て、聴くという状況である。多人数すべての人に対して、座った位置からの視線を確保しなければならない。舞台上の一つの出来事に対して、多人数が見るという形式。一方「美術館」で行われるものは、たいていの場合は、複数の作品を巡り歩きながら、見るという状況である。複数の作品に対して、巡るルートを確保しなければならない。複数の作品に対して、巡りながら見るという形式。そして「劇場・ホール」建築も、「美術館」建築も、どんなにすぐれた建築であっても、そこで何かが催されなければ、ただのハコとなってしまう。

 「美術館」では、常設展と企画展がある。常設展といえば、その館が持つコレクションを展示し、企画展といえば、あるテーマにしたがって展示が計画される。その館のコレクションを用いることもあれば、借りてきてということもある。人々を惹きつける魅力的なコレクションがあれば、人は美術館にやってくる。モナリザがあれば、世界中からルーブル美術館にやってくる。逆に企画展しかない美術館はつらい。毎回毎回新鮮なアイディアをつくりださないと、人々を惹きつけることはできない。

 では、「劇場・ホール」にとっての常設展、企画展とは何だろうか?この場合、企画展の方がイメージしやすい。なぜなら、大部分の劇場・ホール(特に公共ホール)は企画型であるからだ。毎年毎年の予算の中で、どのような企画が立つか、あるいは持ってこれるかを考えて、企画を立てる。では、「劇場・ホール」にとっての常設展とは何か?私は、それをフランチャイズ型の劇場・ホールと考える。レパートリーシステムで運営されるオペラ劇場、あるいはロングランのミュージカル劇場か。定番となり安心して見られる出し物もあり、また一方で新演出の出し物もある。そしてもう少し範囲を拡げて考えれば、出し物だけでなく、フランチャイズでパフォーマンスを行う人もしくは集団も考えられる。墨田トリフォニーホールをフランチャイズとするオーケストラ(新日本フィル)、まつもと芸術館で館長、芸術監督をつとめる串田和美。その劇場・ホールへと出かければ、出し物は同じではないかもしれないが、なじみの人たちの出し物を見ることができる。そこには、企画型のみで成り立っている劇場・ホールとは違う感覚を人々は持つ。見る人も、舞台に立つ人も、館の人も。

 建築にしても演劇にしても、かなり専門的な領域まで踏み込んではいるが、根底にあるのはあくまでリベラル・アーツの一環としての教育であり、その土壌の中で生徒によってはその才能を伸ばしプロの道を選べるように考えている。学校としては、将来のアーティストも、将来の観客や聴衆も、将来のパトロンも育てる責任を持つと考えている。ここで重要なのは、演じる側の人間だけでなく、それを観たり聴いたりする人間、支えサポートしていく人間までも含めて育てていこうとする姿勢であろう。
これからの劇場・ホールに求められるのは、魅力的な常設展を持つ小屋であろう。それには、だれかがフランチャイズにならないといけないのである。だれかがフランチャイズになるということは、全員に平等でなく色がついているということである。公共施設では、平等でないことは嫌われる。しかし、平等を目指して面白くもなく、魅力的でもなく、したがって人もあまり来ない劇場・ホールよりも、ちょっとは不平等であっても、顔があり、魅力があり、したがって人が来る劇場・ホールの方がずっと良いのではないか。一方、これからの美術館に求められるのは、コレクションをさらに引き立てるような切り口を持った企画ではないか。同じ作者、編年順だけが切り口ではないはずだ。

 「芸術」アートをささえる空間とそこで行われるものについて比較検討し、お互いの領域を見ることの意味は、双方の差異を認めつつも自分の領域に何が欠けているかを考え、新しい何かを生み出すためにあると思う。

(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会 シンポジウム冊子「公共文化施設のあるべき姿を探る」所収)

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